はしがき

 編中しるす所は眞事實か、それとも假作事實か。假作と見る人はさう見てよし、眞と思ふ人はまたさう思へばよし、著者はいまあへて之を明亮に云ふに忍びぬ。

 著者の知友に此編中の主人公のやうな人が有つた。その人は何の原因とも知れず、毒を飮ませられたか。飮んだかわからぬが、とにかく中毒がもとで二十三歳を一期として死んだ。その人を知つて居る人の中には社會の上流に位する人もある。今その名を明かす必要も無い。

 編中の主人公のやうな其人は不世出の資を抱き、滿腔の忠愛の情をさゝげ、きはめて不思議な世をわたつて又きはめて不思議な最期を遂げた。著者はその人に對する同情の念に堪へず、いさゝか追悼の心ばかりに此篇を編んで、あらはせられぬ、世に隱れた徳を涙有る人に知らせたいとつとめた。

慨世志士 女裝の探偵

美妙著

其一

夢の夢、いたづらに聞きなした此言葉が哀れわが無二の死友の上と爲らうとは思はなかつた。

自分の平素の希望は富でも無く、名譽でも無く、唯人間第一の義務たり又目的たり又た運命たる末期、この時だけ笑つて快く花々しく目を閉ぢたいと思ふのである。病牀に呻吟するよりは一おもひに短銃で撃たれた方がはるかに苦しく無い。と言つて何も奇を好んでわざとらしく死を願ふでも無いが、唯死といふ事は生類にとても迯れられぬところで、おなじ死ぬのなら、何か花々しく、帝國のためとか、社會のためとか、すくなくともHumanityに近いだけの處で、どうか永眠するやうにと思ふ。生前の毀譽もとより心にとめるべき事でも無し、さりとて身後の褒貶また頓着すべきもので無い。唯、今は死ぬといふ斷末魔に至つて一切の煩惱なく、悠然として笑つて死ぬればそれが人間無比の勇者だと思ふ。

 是を友人に語ると、誰とても冷笑する。言はゞ相手にならぬ。煩惱界の獸めと遂に此方でも冷笑して、次第にあまり口にせぬやうになつた。が、實に天に缺乏を補ふて吝ならず、程無く自分と同氣の友人ができて、自分の説に心から同情を表してくれた、ことし二十九歳になつた矢部道任といふ男で。

 二十九歳になつたといふのも悲しい、渠はもう此世に亡い人である。しかも其笑つて死にたいと言つて居たのが、毒を服して泣いて、泣いて、泣き死んだ、心を殘さぬどころか心を殘して、煩惱の無いどころか充分煩惱に包まれて。

 是からその身の上を書かうとすると、先はや心に浮かぶのはその末期である。死ぬといふその前の日、例のとほり自分の所へ音づれて來て、快く飮食し、快く談笑し、いつもの通りにして勇んで歸つて往つたのが永別のそも〳〵はじまりで、翌る朝は病氣危篤との急電、慌てゝ懸けつければはや半死半生、劇毒を服したとか言ふ事で口も利けず、遂に前いふとほり二十九歳を一期として空しく大志を懷いて不歸の人となつた。さりながら今でも耳に殘るやうなのは其末期の言葉で、彼は痩せがれた手を何のためとも無く殆ど無意識にあげて、而もせきあげて泣きながら、噫、殘念、仁義(Humanity)のために死ぬので無いのが畢生の恨事だ。陛下のために捨てやうとした命でもある。清韓二國のために捨てやうとした命でもある。乃至また非律賓の義徒のために捨てやうとした命でもある。その目的が、悲しいかな、一つとして遂げず、くるしんで疊の上で狗死にをする、とても死に切れぬ。

 この言葉を此世への名殘として終に渠は瞑目した。既に是だけで渠すなはち矢部は一の血性男兒たる事がわかる。さかのぼつてその過去に就いて見れば、それだけの言葉を殘して死んだゞけの價値もわかる。

 その出生は伊豫の松山で、繼母の手に育つて性質はねぢけた方である。漢籍をば土地の何某といふ先生に學んだが、しかもその十九の年で端無くも先生と大喧嘩した、史記の荊軻傳の講義を聞く席上で。

 つく〴〵と、矢部は荊軻が死を决して>燕丹にたのまれ、秦の始皇を刺しに行くといふ心事を想ひやつて、さながら我身の上のやうに感じて、はら〳〵落つる涙をとゞめかね、殊にはその悲壯な易水の歌に一しほ膓をかきむしられるやうに爲つて、我を忘れてその歌を幾度もくりかへした。

「風は蕭々として易水寒し、壯士一たび去つてまた還らず。嗚呼、我が黨の志だ。とても生きて還らぬと承知して、それで勇み進んで行く、實に侠客の模範といふべきものだ。風は蕭々として易水寒しか、壯士一たび去つてまた還らずか、嗚呼、風は蕭々として………」

 いつまでも休めない。しばらく我慢して居た先生もこらへかねて、

「矢部さん、どうしたンです。後の講義ができません。好い加減にしたら、え、矢部さん。」

 耳にも入れで相變はらず風は蕭々とつゞけて居る。ぢれ込んで、

「え、矢部さん、邪魔になるです、ほかの人の迷惑です。いつ迄やツて居るンですか、御よしなさいと云ふに。」

 少しくねぢけた性とてをかしく癪にさはツた。

「先生、ですが是には感ぜずには居られません。えらい侠男兒、われ〳〵の師範です。感じたあまりにはつひ其心事も坐ろに推しはかられて………願はくば私も明治の荊軻となりたいです」。

「明治の荊軻、あの刺客にツ」と先生眼を圓くした。

其二

「明治の荊軻といふ心で、この命を他のために捧げて死にたいです、刺客もとより願ふところ、願はくば他のため、他のためよりは寧ろ國家のため、國家のためよりは寧ろ皇室の御ためならば人の厭ふ刺客もとより希望です」。

「血氣とは言ひ乍ら、然う名譽心に驅られては困る」と先生些しく冷笑すると、矢部は凄まじい相好になツて奮然として、

「名譽心ですと、先生、あツ先生は然う思ふンですか。怪しからん、それは自家を以て他人を忖度するといふもの、他のため、國家のため、乃至皇室の御ために盡くすのが何で名譽心です。名譽はその成績によつて伴ふもの、一片の赤誠は名譽の得失を顧るものでは無いでしやう。

嗚呼少年だと是ほどに見くびられるものかなア」と涙ぐんで獨語にて、

「先生、私に一人の兄とも父とも頼む人が有るのです。至誠熱血の人間で、他のため國家のため、皇室の御ためならば、一身を捧げても苦しくないと始終言つて居るのです」。

 先生些しく釣り込まれた。

「ふム、何といふ人で」。

「今は離れて東京に居ます、西野文太郎といふ男で ((この頃は西野がまだ刺客とならなかつた時と思しめせ)) そりやもう皇室の御ためと言つたら氣ちがひです。人情の輕薄に移り行く世を憤慨し、機も有らば身を殺して目ざましを世に與れて遣らうと言つてるですが。私の希望もまた然うですな。皇室の御ためならば今でも死にたいです」。

「はゝゝ、醉興だな」とあざ笑ツた。

「是はしたり皇室の御ために死ぬのが何で醉興です」。

「頼まれもせぬにさ」と猶あざ笑ふ。

 矢部怒氣燃ゆるばかりになつた。「驚いた。頼まれなけりや皇室のために盡くさないとの御精神ですか。おどろいた。よしや頼まれずとも、また一言の禮の言葉を受けずとも、日本男子の 至尊に對し奉る道と言ふのは一の元氣となつて存在する譯です。頼まれなけりやとは驚いた」。一層語氣を嚴にして、

「先生、と言ふも是ぎりです。改めて私は退學します。日本人の身分としてそんな腐つた膓を持つ禽獸の講義を聞けば耳が汚れる。腐れ儒者の穀つぶし」。つツと席を起ちかける。

「此奴無禮な言を」。

「無禮と思ふほど血が有るか。心事相應の罵詈だ。くされ儒者め」。

 其儘出やうとするのを、飛びかゝつて引ツとめ、「待て、矢部。師に向かつて無、無禮な。」

「待つてどうする。極惡の不忠もの、大日本の元氣を、待つた序に見せてやらうか」。

 同時に拳は先生の頭上に飛ぶ。あまりの意外にたぢろく所を二つ三つ手早く利かして、身をひるがへして逃げ出して、「觀念しろ、撲つたのは矢部ぢやない、日本魂が撲つたのだ、日本の元氣が處罰したのだ、大不忠のくされ儒者を」。

 言ひすてゝ雲を霞、わが家へ迯げ戻ツた。

 先生の憤怒もとより治まるべきもので無い。しかも矢部道任その者の繼母には兄に當たるところで、その日の講義はそれぎり廢止になつた、頭から白煙りを噴かせて、詰問のため矢部の家へ行く事になつた。

 矢部の繼母も父も丁度在宅して居たところで、一伍一什を聞いて、すぐさま本人を呼び寄せたが、繼母は繼母だけに一言の小言をも言はない、親父が眼鏡ごしに道任を睨めつけて、散々に叱り飛ばすのを氣味のわるいほど大人しく聞いて居たが、やがて小言も一段落付いたらしくなつたところで、そろ〳〵口を切り出した。

「小言はそれだけですか」。

 冷かし半分の口上に父も一入嚇となつて、

「何と吐かす。もツとまだ聞きたいのか」。

「聞いた處が同じ事ですから聞きますまい。日本男兒の心がけは一意唯むかしからの大和魂を養ふと言ふだけです。それに議論が反對した、言はゞ國賊ですから毆ツたのです。なぐられたゞけだからまだ仕合はせ、もすこし骨ツぽい人間なら、天に代はつて呼吸の根をとめてやるのです。親縁のよしみの義理でもありましやうが、私に小言を言ふとは更にその意を得ませんです、國賊の肩を持てば同罪は免がれませんからね」。

 しばらく父は呆れて居た。

「道任、どうして貴樣はさうねじけた人間になつたのだ。

言ふに言を缺いて國賊呼ばゝり……」

 半ば言はせず、「また然うぢやありませんか。皇室の御ために忠を盡くさうと言ふのを、苟しくも子弟を教育する身を以ツて、醉興だと」。

「おとツさん、もう何も仰やいますな」と、やがて差し出たのは繼母であつた。

其三

 繼母は語を繼いだ。「こんな利口な兒に小言なんぞ仰やるもンぢやございませんよ、何から何まで知り切つてるンですもの。何しろ兄が説得しやうと思つたのが心得ちがひなンです。ねエ兄さん、あなたがなまじツか深切ぶツて身のために爲るやうにと爲さるのが間ちがひですわ、人殺しをしやうと何を爲やうと、利口な此兒の勝手にして置きやいゝんです、心からどうせ疊の上では死ねますまいまらさア」。

 眞綿に針を包んだ言葉はいとゞ心を刺激した。

「たしかに伺ひました、おツかさん、どうせ疊の上では死ねまい、有りがたい、それが私の本望です。ね、國家のため皇室のため一身を野ざらしにする、是ほど嬉しい事は有りません。生まれ出でゝは如何なる義務を社會に對しておのおの持ツて居るかと言ふ事を思はず、一身の苟安を偸んで、食ツて寐て起きてそれから死ぬ、犬同然の輩はとても咄になりませんや」。

「口が過ぎるぞ」と父が叱り飛ばした。「貴樣どうしても然う強情張るか」。

「張ツて張ツて張りぬきます。獻身的慈善に敵する奴バらは皆惡魔、死、死命を賭しても爭ひます」。

「氣ちがひめ」。

「あはゝツ、蒼たる彼の旻天、誠忠誰と共にか語らんだ」と鼻唄めかして冷笑する。

 牝鷄に晨される父は騎虎のいきほひ今更その儘に濟まされなく爲ツた。凛として、

「よし、もう何も言はん。父や師の訓戒を肯かんものは家に置くべき道理も無い。どうでも強情張り通すならよし今日限り何處へでも出て行け」。

「うツぷ、どうせ其邊が結局だ」。

「何だと。」

「いや承知しました。それで涙金はいくら下さる」。

 父は呆れてしばらく言句も無い。

「下さらんければよろしいです、無代をもツて捨てられましせう。塵を捨てるのでさへ錢の出る世の中ですのになア」。

 いよ〳〵呆れる滿座をぎろ〳〵と睥睨して、「わるびれず出て行きます。したが一言言ひ殘して置く事といふのは外でもありません、道任はかねての希望を必ずともに貫くです。この腐敗して居る今日の社會に一人一點の明星となるのです」。

 誰一人として。返辭もせぬ、

「それですがおとツさん、男子道のためには唯死あるのみです。是を今日の御わかれとして生きてふたゝび御目に掛かれるか何うかその邊は何うもなア」。聲すこしふるへて眼はうるむ。

「逐ひ出されたとて怨むのは子の道で無いです。蔭ながら御幸福を祈ります。が、家の名を恥かしめるやうな事は」拳をかためて膝を打ツて、「そりや誓ツて有りません」とばかり感きはまツてか泣き入ツた。

さすが親身の情、父の眼もまたうるむ。が、他の二人は冷々鐵のやうである。

「さツさと行かぬか」。父はむしろ見て居るのが斷膓に堪へられぬといふ樣子で急き立てる。

「は、はい、行きます」と起ちかけたが舌うちした、「木偶の坊が揃ひもそろつて、儀式的の取りなしさへ爲ないンだ。嗚呼嗚呼、腐肉、朽木、糞土の牆」。

 最後の此一言が一族には聞きおさめであつた。

 身支度して、きはめて平氣に、きはめて落ちついて出る事になツた。父は流石に今更心許無く、送り出すとも無し追ひ及んで來て、

「だが是旅費は」。

「いたゞきました」と微笑した。

「誰にツ」

「あなたの紙入れの中から――用箪笥の。當然の事ゆゑ料らひました。二十圓有りましたが必要だけ、十圓だけを出しました。天地の飛行はもう出來ます。さやうならば御機嫌よく」。

 飽くまで父を呆氣に取らせて、飄然として立ち出でた。

 秋の末とて淺澤水の枯れ葭あはれに戰いで、影は見えないが五位鷺の遠音そゞろに戀しく、水に離れる浮霧も何處を目的とも無く迷ふやうである。

「吁やツぱり此所も易水だ。荊軻もこんなときに出たんだらうなア。寒いツ!、風は蕭々として易水寒し、壯士一たび去ツてまた還らず。えへツ、愉快だぞいツ」。

其四

東京芝櫻田兼房町の古河といふ下宿屋に矢部がその死友と頼む西野文太郎が居るとの事に、それのみを心あてに遙々と上京して辛うじて尋ねて見ると、その二三ケ月前とかゝら西野は何處へか轉じてしまつたとの事に頼みの綱も切れはてた。いかんとも仕方無い。すご〳〵として、せめては序にまづ皇居をでも拜さうと、櫻田御門の邊まで來ると、御かゝへ車らしい車夫が二人で咄して居る、何心無く聞くと金玉均といふ言葉が洩れた。

 志士としてかねて慕ツて居た名を聞いて、忽ち餘所事でなく思はれ、それと無く立ちどまツて耳を欹てる、とも知らぬか下司の高調子に、

「どうしてか分かりの好い人だぜ。あれ程だからあれ程の大事を國ではじめたンだ。また直だらうよ、國へ歸るのも。さうさ、今じや岩田周作と言ツて居る。身裝から言葉からまるツきり日本人で、そりや己などの車夫などにもよく目を掛けてくれるぜ、ほんとに。一騷動おつぱじめる時には己もあツちに一所に行ツて一六勝負をやツて見てエや」。

「また始まるのか一騷動」と一方の車夫は稍目を圓くした。

「そりや聞く迄もねエさ、あの儘でどうして泣き寐入りに爲れるもンか。それにはよ、御前、始終忍びのものが朝鮮から來やがツて殺さうとしてるンだもの」。

「ぢや御前もいつ何時傍杖食ふかも知れねエな。おツかねエな」。

「へゝん、かまふもんか、死んだツて可いんだ、あの人のためなら」。

「強氣に惚れ込んだな」。

「また然うよ、言ふ芽の出るほど好くしてくれるんだもの」。

 下司の車夫にも猶是ほどの氣概が有るかと矢部はつく〴〵感じ入ツた。たちまちに思案を定めてその傍に差し寄ツて、「あんまり突然ですが、あなたは金玉均さんの御車夫さんで」。

 相手は些しく怪訝がほで、「はア」とのみ素氣無く答へた。

「うらやましいですなア、好い處に奉公して。私も實ははる〴〵御名を慕ツて來たンです、どうか書生にでも爲りたいと思ツて」。

「傳手が有ツてか」。

「そりや有りません。が、唯一心で」。

「そりや駄目だ。傳手が有ツてせへ容易ぢや無エンだ」。

「何も縁づくですから、どうか助けると思ツて、屆かない迄も御前さんから旦那に然う言ツて見て下さいな」。

「無法なことを言ふぜ。駄目だよ」。

「そこをどうか」。

「だツてもよ、氏も素性も知れねエものをどうして書生にしてくれろと願へるもンかな、つもツても知れそうなもんだ」。

「そりや御尤もですけれど……赤心を察してさへ下されば」。

「察しやうがねエぢやねエか」。

 途端、その向ふ側の御待合と記した家から「岩田さんの御家來さん、御かへりですよ」との聲が響いた。

「おツと來た、いつに無い早い御立ちだな。ぢや兄イ暇の時に遊びに來ねエよ」と相手の車夫に捨て臺詞を殘したまま、どツかはと車の方向をなほした。

 すはや音に聞こえた韓土の志士金玉均氏の風采をゆくりなくも見る事ができるかと矢部は兎に角心うれしく、立ちすくんだ儘になる間も無く、女中どもに送り出されて來た其人といふのは成るほど噂に聞いたとほり日本服を着た一個の紳士で、目の覺めるほど綺羅びやかな打扮で、微笑を帶びて會釋して、さも身がろく車に乘る。

 曳き出だされて此處で別かれた以上は素より再たび一書生の身をもツて面會する事もできぬのである。よし、思ひ切ツて當たツて見たら、又何とかして運をでも引ツつかめぬ事は有るまい。とばかりの決心はやくつか〳〵と差し寄つて、慇懃に禮をした。

「失禮ではございますが、御願ひ申したい事がございまして、どうか御差しつかへの無い時、御邸でゝも一分間ほど申し上げる事を御聞き願ひたうございまして。かいつまんで申せば私は伊豫のもので、つね〴〵志士たらん事を望みますところで史記の荊軻傳を讀んで、非常に感奮いたしまして、終に師と父とに怒られ、放逐される事となり、頼るべき所も無く、つひに豫ねて敬慕する令名の下に身を寄せたいと思ふ計りに、はる〴〵と上京いたしましたので。突然で嘸ご信用も爲さいますまい。が、赤誠を御察し下されば」とばかりで涙ぐんで居る。

 その涙すこしく玉均を動かした。

其五

 突然とみづから名のりかけて身を寄せさせて呉れと而も往來ばたで、而も音に聞えた名士金玉均と知ツて、而も十九歳の一少年の身であツて、頼み入つたゞけでも既に一奇である、木下藤吉が織田信長に身を寄せたその昔も丁度かうかと思はれて、さすがの玉均だけ稍些しく考へた。

 見れば少年いやしからぬ風采である。志士たらんと望むらしくは見えぬほどやさしげな美少年で、是を女にしたら如何ばかりの男を惱殺するかと思はれる程である。が、怜悧、敢爲の氣象は明きらかに眉宇の間に髣髴として、既にその初對面の言動でさへ一種の奇骨の有るのをば證據立てゝ居る。と思ふ儘玉均も無下には之を斥けなかツた。

「身を寄せたいとは書生にでもなりたいと言ふのですか」と玉均から問ひかけた。

「はい、どうか身を捨てゝも義侠を行ひたく、憂國の志士たる先生などの明星の光りの下に人間の盡くすべき義務を盡くしたいと思ひますので」。

 玉均やゝ感じた顏色で「名は何と言ひますな」。

「矢部道任」。

「矢部、矢部」と一二回くり返して、「輕卒にまだ斷言する事はできんが、折角志して來たといふのを、いはれなく其述ぶる所も聞かずに排斥するにも忍びない。

今夜も池上の光明館に居るから、もし咄したいなら彼處へ來なさい」。

 矢部はこをどりする程である。はした無さ過ぎると後で氣の付いたほど我知らず頭が下がツて、情にもろい身が又涙さしぐんだ。

「何ともはや、早速の御承引、いや御禮の申しやうもございません。それでは御差しつかへの無いかぎり今晩にも」。

「はア宜しい。急ぐから今は此儘」。

 輕くうなづくや否や車夫は韋駄天、名ごりをしいやうな其人の影はたちまち見えずなツて了ツた。が何にしても嬉しい。足も地に着かぬばかりである。

「名士、名士、流石は金氏、えらいなア、人を見る明が有る。少年と見くびりもせず、またみだりに怪しみ怖れもせず。膽だな、あの身體は。さて其處だて、今夜の會見が一大事だ、下手に出て見くびられては萬事休すだ。またどんな試みを行はれるかも知れないが、そこは當座のこちらも度胸だ。水はいかなる隙をも求めて下り、火は如何なる傳手によツても上る、どうしたツて一念だ。どうでも充分に意中を述べて、さきの心を動かさなくては」。

 とつおいつ胸更にまた安からぬ。まだ時間も有る事ゆゑその儘二重橋際に至ツてはるかに皇居をば拜したが、さすが今はその夜の事が胸一杯なので、久しく駐まツて拜しても居られなかツた。況んや市中を散歩する氣も無い。すぐと又汽車で大森まで至り、池上の方向を聞き定めて置いて後、また夜の事を考へながら濱邊の方を漫歩した。

 二三人漁師の若者が網をつくろひながら何氣なく高咄しをして居る。

「昔の人は違ツたもンだなア、さうかなア、女すがたに化けて居ちや大抵氣イゆるすからなア」。

「ゆるさアな、まして美い女と來て居ちや押さへた螇蚹だ。だからこそ忍び込んで易々と仇もうてたンだ、そりや手も利いてなくツちやいけねヱけれど」。

「だが其女に化けた毛野とか云ふのは好い男でもあツたンだなア、御めへら樣なンぢやいくら化けたがツても化けおほせねヱ」。

「うツす、御めへらと限ツて手めへの事を拔いたのがづう〳〵しい」。

「おらなら化けられる」。

「その黒さでか」。

「白粉てへものが有る。資本は目鼻だちと骨細だ、どうだおらなら然だらう」。

「ふざけやがら、骨細と痩ツぽちとは違はい。やせツぽちなのを好い氣ンなツて骨細だとよ。また白粉を塗るとよウ。四斗樽で買はなけりや間に合ふめヱ」。

 皆高く笑ひ出して、あとは他のはなしとなツた。心無い話しも心有ツて迎へられゝば又不思議な材料となるもので、今更の如く矢部は感じた。

「おもしろい、全く然うだ。油斷させて忍ぶには女すがた、こりや奇妙だ。それには此乃公、人も美少年だといふ、こりや時と場合に因ツては、他日外國と交戰でも有ツた時、國家のため敵情などを探るのに、大いに化けるべしだなア。髭は薄し、體格は痩せて、長は少なし、聲は細し、指も纎し、顏色もおのづから白し、その資格に於いてこりや申し分無しといふもンだ。愉快な事に氣が注いたな。漁師どの、わが師たりだ。よし、又今夜會見の時、この事をも咄して見る。うまい、うまい面白いぞ」。

 後につひに女裝して七年間此男が清韓露の三國に忍び込んだ、その思ひつきの始めは實に單純な此時の一小事に過ぎなかツたのである。

其六

光明館のはなれし室に今風呂から上がツて來たばかりで、丁度訪問の客も無く、女中に背中など拭かせて居る金玉均のところへ、約の如く矢部は來訪したとの取次ぎが有ツた。

 直と承知して呼び來らせる。いつも來訪する人は韓客で無ければ、日本の要路の人、さも無くば然るべき政客か壯士であるのが、打ツて變はツた美少年の一書生、その癖身裝はさして好くもない、一種異形の人物と女中怪訝顏である。「席を遠ざけた方がよからうな」と玉均口の裡で獨語して、やがて其意を女中に傳へて席を去らせ矢部には輕く會釋した。

「私の所へ身を寄せたいと言ふ君の心事は大要さきほど聞きましたが、それに就てのくはしい仔細は」。

 その事でございます。或は口が過ぎる所も有りましたら何うか御ゆるし下さる樣に。過刻も申上げました通り願はくば國事に身を盡くす志士となりたいとのみ望みますので。一口に申せば他を拯ふがためにわが身を犧牲に供しても厭はぬ、否むしろ望むのでございます。それを不心得だと父や師に言はれまして、意見衝突の結果終に放逐されましたので」と夫から荊軻傳に感じて師とあらそツて終に家を出た迄の一切を包む所無く述べ立て、

「時を待つために忍ぶならば泥にも荊棘にも潛むを辭しません。さりとて何うせいつか一度は死ぬ命、一の公益になる事で失ふのなら决して辭退しません。國を出る時から常の覺悟は是でございます」。

 懷中かいさぐツて補綴の胴卷はづかしげも無く取り出だし、更に中から取り出したのは短刀と藥瓶と一葉の寫眞らしいものである。玉均は唯だまツて視る。

「此藥瓶はモルヒネで、御覽の如く是は短刀、死ぬ時の用意は常にそなへてありますので」。

 玉均微笑した。

「それが無ければ死ねンのかね」。

 不意に一槍膽を突く。が、動ぜぬ。

「死を見る事歸するが如く、いはゆる死に狃れぬといふ、それだけの魂を修養するには常に死に道具を持たんければ爲りません。又況んや場合によツては是で人をも刺しますもの」。

 相手は默ツて微笑した。

 殘る一品うや〳〵しげに取り上げ、一拜して包み紙を去り、更に二重に包んである錦の嚢を解けば、中から出るのは畏いあたりの御肖像の一葉である。

 つゝしんで其處へ置いて固く兩手を組み、

「草莽の身もとよりお側に咫尺する事も叶ひませんに因ツて、さりとて一日も忘れ奉らぬとの心ばかりに勿體無いと存じながら斯くは肌身をはなさぬのです。半夜人しづまツた殘燈の前、御姿を眺めてつくづくと思ひ入る時の壯快な感覺はとても口では盡くせません。」

 深くまた感じ來ツたらしく語句やゝよどんで、身ぶるひしたが、金氏の胸へもよほど感じた。

「是が赤心なのでございます、言ふところの頗る奇激なのはみづから知らぬでもありませず、奇を衒ふと凡眼に見られるかも知れんとは存じて居りますが、實は實、眞は眞、飾るも、飾らぬも有りませんのです。」

 そろ〳〵と元のとほり一切を藏ツて更に携帶した鞄の中から四五十枚の寫眞を出した。

 是御覽くださいまし」。

 金氏何心無く取りあげて見れば、是は又何たる事、見たのみで胸わるくなる癩病、梅毒患者などのその殊にはなはだしい姿なのを寫し取ツたものである。一枚として滿足なものは無く、柘榴の如くに裂けた口から膿液の流れ出て居るのやら、泥大根を筒切りにしたやうに脚の切れて居るのやら、鼻の落ちてゐるのやら、毛の脱けあがツているのやら面の膿みふくれて居るのやら、眼の張れふさがツて居るのやら、疼さにたまらず死毒を舐めたやうな顏して悶えて居るのやら、二本杖に縋ツて跛引きあるいて居るのやら、凡そ有りとあらゆる、きたならしい、うとましい、醜い、心もちわるい姿を揃へてある。

 是には金氏さすがに呆れた。半分で見るのを止めて、さも不快げに、

「是はまたどうしたので」。

 矢部はきはめて冷やかに、

「食事の時には菜とし、婦人を思ふ時は嚴格な師友とするものです」。

 金氏なほ心得かねた顏つきである。

其七

矢部はつく〴〵寫眞を眺め入りながら、

「此見るからは淺ましい寫眞をこれまでの數に至るまで集め、日常の友とし、師とし、又食事には菜とする其いはれと言ふは外でもございません。私しは神經が過敏です。子供の時からして感じやすく、三食にの時も不潔な咄しなどを聞くと、もはや食物も咽喉をさがらぬ程でして、みづから身の腑甲斐無きを嘲りました。神經過敏も物と事とに因る、こんな事が忍べないで、どうして大事に對して忍ぶ事ができやうか、何も修業、心がけといふは此處だと、それから自分の一番きらふところの此樣な不潔な癩病梅毒などの患者の寫眞を採り蒐め、故さらに食事の時には菜の如くにして必ず膳の傍に置いて眺めながら胸を据えさせました。もとより最初は胸わるさ一とほりで無く、顏色も蒼ざめる程でしたが、物は何でも習慣で、一二週のうちには次第に感ぜないやうになり、終には是非とも眺めねば物足りぬ心もちのする迄になりまして、現在の患者を實地に見てさへ更に不快を感ぜなくなりました。まづは如何なる不潔不愉快でも堪へ忍ぶ事は誓ツて出來る事と思ひます」。

 可否は言はぬが金氏は輕くうなづいた。

「それで又婦人を思ふ時に師友とするとか言はれたがそれは?」

 問ひかける程好奇心を動かし得たかと矢部もいよ〳〵乘り地に爲ツた。

「婦人をおもふ情慾をそれでみづから抑へるのです。淺ましい姿、世の人にうとまれる彼等梅毒癩病などの患者と爲ツた、その元はと言へば遺傳性のも有りましやうが、多くは自ら不潔な劣情を抑へる事ができない故であると思へば、國家のためには千金にも代へ難い貴い身に取ツて悚然として怖れざるを得ざる譯で、私としても人間、婦人を懷ふことも有る、その時にはいつでも此寫眞をならべて見ては飜然としてみづから思ひ絶えますのです」。

 婦人の點に於いては花にしたしむ蝶のやうな金氏は流石此言葉だけは我身の上を言はれるかのやうで苦笑した。

「そりや無論さうである」とうなづいて、「段々聞けばすこぶる人の意外に出でた着目をして居られて、僕もはなはだ面白いと思ふ。但し口にするは易く、行ふは難しで、君を疑ふでは無いが、こゝで一回の面會だけで、眞實に君がその決心であるかどうかは猶まだ分からぬ、それが又當然なので。眞實に義士と爲り侠客と爲ツて死なうとの君ならば願ふても無い名士、萬事を御相談しても甚だ頼もしく、無論できる丈の御世話をしても苦しくない。が、今はまだ一切引き受けて御世話するといふ所までは至らないから惡しからず」。

「すると御手許に置いて下さる事は叶ひませんので?」

「食客となる事ですか。そりや可い。初對面ではあるが一種の氣骨の有る君と見たによツて、先疑ふ所無く君にかぎツて快く承知しましやう、食ツて居るだけの事ならば」。

 打ち返して浪の高まさりする如く矢部の喜悦は極に達した。

「いえ唯それで結構なのでございます。天外の一孤客を更に疑はれず御拯ひくださる御大量には失禮ながら實に敬服いたします。唯是から一の下僕と思し召して何事にても御遠慮無く命ぜられて戴きたうございますので」。

 玉均返辭は無く、何事かしばらく深く考へ込んで居たが、卒然として、

「しかし君、教育はどんなもので」。

「どうも餘り……中學の初年のころくらゐの程度で、まづ廢めまして。その代り柔術や游泳のやうな荒い事はどうか斯うか」と笑ひ出す。

「外見によらんものだな、一見婦人の如くでなア。特に君に聞きたいのは女禮式、琴、茶、花などは出來ぬかと言ふ事で」。

「それは何うも」と稍おどろく。

「是から大いに稽古して見ないか」。

「何ですかツ」と矢部の聲は我知らず際立ツた。

「琴や茶や、是は奇妙な、それらを是から習へとの御言葉ですか」。

「うム」と金氏は冷やかに。

 すこぶる呆れた、「實に奇妙な。志士と爲ツて國事に奔走するのにそんなものを學びましたところが………」

「いやそれだから學ぶのだ」。

其八

 國事探偵とも刺客とも爲らうと云ふのに武藝でも修めろと云ふなら兎に角、飛びはなれて琴や花や茶を習へとは此奴さすがは金玉均、あたり前の醋で殺せる代物ならず、いづれ深意の有る事と矢部もその儘だまツて居る。

「それらを學ぶ必要の有る仔細分からんかね。よし、分からんでも可い、分かるべき時も或ひは來る。とにかく僕から君に忠告する、君が志士と爲ツて死なうといふ其目的を遂げるためには夫等を修めて大利益有るのだ。僕の説にしたがふのなら、學費ぐらゐは補助してやる。やりたまへ、學びたまへ、さうして又その内には僕から君に依頼する事も有らうからさ」。

 變妙至極とは思ひながら、この場合我意を張る事も非なるを思ツて、矢部も盲從する氣になツた。

「不才でそれらが私に取ツて何の益有るかは知りませんが、いづれ深い關係のある事とも存じますゆゑ、兎に角仰せに從ひましやう」。

「しかし眞實熱心にやツてくれなければ困るがね、たしかにやるかね」。

「請け合ツた以上は誓ツても」。

「よし、君の事ゆゑ嘘でもあるまい。それならば明日からでも。師とすべき人の心あたりも有るまいね。それに就てはそれら一切に達して居る、えらい婦人が有るが、僕からその方へ紹介しやうと思ふ。もとは女官であツて今では民間に下ツて物など教へて居る一の列女で、新聞や何かでは頗る不評判だが、どうして其實中々すぐれたものである。異存あるまいね」。

「ございませんとも」。

「さらば是から直に行くさ。いやさ、驚くには及ぶまい、日本の諺にも善は急げと言ふでは無いか。就ては君を此處へ置いても可いが、國のものなどに見られて聊か思はくが有るから、費用はあげる、その人の近所に下宿でもして貰ひたい。委細は紹介状に書いてその人にも頼むから」。

「御傍に居られぬのは些しく遺憾でございますが」。

「そりや修業する内だけだ」。

 硯引き寄せ、何事かおもむろに認めた、およそ三十分ばかりの間、封じをはツて書く宛名を見れば矢部自身もかねてその名を國でも聞いて居た島田絲子といふ一女丈夫であるので、また坐ろに勇み立つばかりに爲ツた。

 その紹介状と共に抛り出した一束の紙幣、それも呉れるのかと潜かに矢部も不思議がる。

「たしか五十圓前後有ツたと思ふ、取りあへず學資として。無くなツたらば又呈げる。さも無ければ島田から一時用立てゝ置くがよし」。

 矢部ほとんど呆れた。見ず知らずのものに、而も一書生に五十圓、その度量のほどむしろ凄いほどになツた。おめ〳〵と手も出しかねるばかりの心もち。

「思ふところも有るゆゑ當分此所へ尋ねて來ないやうに頼む。をり〳〵は島田のところ抔で會はうと思ふ。月に三回位はいつでも訪問する」。

「何とも早恐れ入りました。しかし此金員をいたゞくと言ふのはどうも些……」

「どうも些とは取りにくいといふのか。そんな事を言ツて居たとて終に無駄遠慮に過ぎんのは決まツて居る。決定は早いがよし、取るべき時には直ちに取るさ。僕も今日奔走して疲れた氣味ではやく寐るつもりで、それ故君を除いてその他の客は一切謝絶させてある位だから、とにかく夫を持ツて早く歸ツてもらひたい」。

 今さら雜談もして居られなくなツて、さりとて又相手の威に撲たれて了ツてつまらぬ世辭など述べても居られぬ。

「左樣ならば別段かにかくと申しますまい。只滿腔の感謝をもツて、仰せにしたがひ辭し去ツて、此足ですぐと島田さんのところへ參ります」。

 丁寧にその紹介状と金子とを推しいたゞいて懷中にをさめ、その納め了ツた頃には金氏はや其儘ごろりと横になツて居る。

「言ふまでも無いが先方で承諾した樣子と君が定めた宿とを早速通知してもらひたい」。

「はい、それは最うすぐと。さやうなれば失禮いたします。」

 金氏無言でうなづいて居る。

 やがて外に立ち出でゝ停車場へと足を向けたが、胸は只もう今夜の事で錯雜を極めて居る。金までくれた、むしろ無法に近いばかりの度量、言はゞ無理に人の肝玉をゑぐらうとする計りの處置ほとんど氣味のわるい程である。

「しかし兎に角本望が叶ツて、志士の仲間入りが出來かけた。今日といふ今日のうれしさは永久忘れられぬものだらう。卑屈きはまる故郷の腐れ儒者などに對して胸が小氣味よく空いた。見ろ、今に乃公の成功を。鼻を明かせてやる其時がはや目に見えるて」。

其九

矢部が島田絲子を尋ねたのは夜もはや十一時に近い頃であツた、その場所は赤坂の一ツ木なので。

 急用かと思へば紹介状に過ぎなかツたが、文面によツて絲子もはじめて其意を領し、取りあへず玄關さきへ矢部を案内させ置いて、更に婢女に言ひつけ、奧まツた西洋づくちの閑室に洋燈など點させ、やがてまた其處へ導かせた。

 ぽツと出の田舍の一書生が如何なる運の神に愛せられてか、天下に名の聞こえた金玉均といひ、また此島田絲子と言ひ、屈指の人二人まで一日に面會しやうとは夫こそ夢のやうであると矢部は我と我身を怪しむばかり、此度はむしろ相手が女丈夫といふので却ツて氣おくれのするやうであツた。

 絲子は年の頃四十二三、紬とかいふ織り物の袷に小絨を襲ねて着、黒木綿の紋付の書生羽織を着用して居た。黒木綿の羽織、第一に矢部をおどろかしたのは是だ。

 近くへと頻りに呼び寄せ、猶遠慮して遠くへ坐りかけるのを強ひてもと言ふ調子で、

「深夜でもあり、また密々に御咄しする所も有りますから、是非どうか近く御寄りなすツて下さいまし」。

 何と無く胸ぎツくりした。言はれる儘その座を近づけると、絲子は紹介状を更に繰り返して讀んだ。

「委細承知しました。力の叶ふだけは充分に御世話もしますが、しかし金先生の御深意をあなたは御了解ですか。いえ、深意と言ふのは、ね、貴下に女禮式や茶や何かを學べと言はれたことの」。

「それを伺ひましたのです、しかし別に説明して下さらず、分かる時に分かると言はれましたゞけで」。

「御咄しゝても差し支へ有るまいと私は思ひますが、その前充分御决意を聞いて置きたうございます。弓矢八幡と昔の武士なら言ふ位に死を期しても金先生のために盡くしますか、それらを學ぶと言ふも空の事と思はずに。士は己れを知るものゝために死すとか、金先生は此手紙にも有るとほり非常に貴下の氣骨を愛するとの事で、勿論それなればこそ僅か一面識の人に金をも呉れたンですわ」。

「それはもう如何なる事が有りましても、誓約を變ずる事は有りません。御目にかけるだけの事さへ出來るなら、如何なる手段に因ツても赤心を御目に掛けたいと思ひます」と是から其素志、修養などを前に金玉均に咄したとほり又この島田絲子にも物がたると、やはり又大ひに同情を寄せられた。

 後に至ツて矢部も思ひあたツた、金玉均が故さらに絲子のところに矢部を招介した仔細を。金の言ツたとほり絲子は雲の上の事情にも通じ、又一の女丈夫で志士を好む、而も雲の上の御事と言へば死を賭しても忠を盡くさうとの素志は玉均も常から知ツて敬服して居るところで、一書生に似氣なく矢部が忠烈の志を抱いて居るのを詐りならずと流石に見て取ツて、わざと又その忠烈の念を絲子に因ツて激まさせ、その意氣を一入深からしめ、忠は必ずしも直接ならずとも可し間接でも、國家のためならば辭まずして死ぬとの氣概を養はせ、玉均その己れは言ふ迄も無く大望有り、やがて又風雲を叱咤する曉には國家のためと言ふを目的に己れのためにも利用しやうとの心算なのであツた。

 何よりも絲子に深く感動を與へたのは矢部が懷中にし奉ツた 至尊の御影である。同志の人物、前後多望の青年と思へば餘所ならぬ心もされた。可し、玉均の手紙にあるとほり、力のかぎり聖徳の有り難いところなどをも是からゆつくり言ひ聞かせて、次第に其意氣を鼓舞してやらうと决心して、

「若いに似合はず 至尊の御影を懷中にしたてまつる抔とは感服の至り、まだ〴〵然ういふ人士が有ると思ふと、嬉しくツて涙もこぼれそうですよ。どうぞね其御志しは末永く磨滅しないやうに願ひますよ」。

 矢部に於ても絲子を見て一種言ふべからざる愉快な感が有る。此人が甞ては、又今とても折々は 至尊に咫尺するかと思へば、その人と親しく物がたりする身も亦何と無く幾らか雲の上に近づいた樣な氣もちもして、丁度壁に懸けてある御肖像までも或ひは動くかのやうに見える。

 凛然として、「忠の一念は磨滅どころか年月を經てます〳〵加はる計りです。それは唯今空言に述て居たところが何にもなりません、異日それを證する時も必らず有るに違ひ有りません。夫は兎に角、例の女禮式や何かを學べといふ金先生の御深意は如何なのでございます」。

「いえ、それは今に言ひます。かまやしません、女中どもや何か皆寐かしましたから夜が明けるまでゆツくりと御咄しゝませう」。

 腹では矢部すこぶる驚いた

其十

絲子さながら試驗をでも行ふ如く、「忠を盡くさうととそもそもあなたが志しはじめた動機といふのが何れ有りましやう。又皇室に忠を盡くす心もちと言ふのは何ういふものか、あなたは如何です」。

「動機といふのも別段有りません。只何と無くおのづからです。心もちと云ふは只それも何と無く好いのです」。つくり飾る心も無いゆゑ、無邪氣に答へた。

 が、強く絲子は感動した。たちまちに涙ぐんで、さも嬉しげに只うなづく。

「それが自然の忠、あゝ頼もしうございまする。日本の人士たるものは其意氣込みが無くては爲らないのですが、それを西洋がる人などは徒らに笑ひますのでね、つひ此程も殘念でたまらない事が有りましてね」。胸の不平を人に告げていくらか休めたい樣子である。

「はゝア、どのやうな事で」。

「御承知でもありましやうが華族がたの令孃を宅へ御幾人もあづかツて私も教育をして居りますが、どうかしてねヱ忠君愛國の精神をその令孃がたに極はめて深く備へさせやうといふのが希望で、それ故教育の方針もすべてそのつもりで行ひ、國家の爲ならば、死を期して事にあたる覺悟を、よしや女性とて有たなければ爲らず、その夫をして忠君愛國の事業を爲さしめるのも貴女がたの手の裡に在る、劍に伏して死ぬまでも日本魂をうしなツては爲らぬと毎でも斯う言ふのです。それを何とまア惡く聞き做す華族が有るのですよ。御名前は言へませんが、而も公爵で、何だと言ふと、島田はひどい事を言ツて聞かせる、忠君愛國をわるいと言ふではないが、婉しかるべき婦人に劍だ短刀だと激烈なる事を教へるといふ法が有るものかと言ツて、突然退學させました。私もくやしくてならず、詰問に行きましたの。嗚呼なさけ無い公爵殿である。皇室の皇室の藩屏とも言はれる方、又况んや華族中でも上流に位する御身分、又况んや公家華族たる御家柄であツて、其御言葉とは何事でございます。似非西洋流の教育を受ける所をも差しとめ遊ばすのが當然でありますのにと、それから公爵がいろいろ分疏するのをびし〳〵説破し、終にあやまらせ、更に又令孃を頼むと言ふのを一旦は謝絶し、又さうでも無い一人でも忠君愛國の思想を有つ人を養成するのがやはり忠だと思ひ直して、それから又引き受けましたが、何と何うでしやう。

「嗚呼」と矢部はきはめて深い感嘆の聲を我知らず洩らして、感嘆の聲は熱涙となつた。

 絲子もさすがに涙ぐんで、「志士となツて身を御捨てなさる事結搆、あなたも然うして御死になさい。高い聲では言はれませんが、日本と朝鮮との關係から何うしても清國との開戰は避けられませんのでね、急なことでも有りますまいが、それはもう表面にあらはれて居ない。裏面の支度はいろ〳〵行ツて居るのです。全く安閑として居るべき時では無いところで、一入あなた抔も頼もしうございます。

 矢部意氣燃えるばかりに爲る。今にも戰爭のはじまるやうな心もちで、さう爲ツたら如此如彼と刹那にいろ〳〵な空想が湧いたところで、料らず思ひ出したのは何か必要の場合ひには自分など女裝するのに適して居ると今日の晝間大森の濱邊で考へ出した事であツた。

「貴女」と奪はれるやうに言ツて、「飛びはなれた事を申すやうですが、異日必要の有る時には國家の爲私は女裝でもして敵情でも探らうかと思ひますが」。

 俄然絲子は面色變へた。

 「まアあなた然う御かんがへ?」

 「はい」。

 「あツ、おどろいたツ」。

 矢部には更に合點が行かぬ。

其十一

「驚いた」と又絲子は重ねて、「金玉均さんがあなたに其樣な事は言はなかツたでしやう、女裝しとろも何とも。さ、御咄し爲やうと思ツたのはそれで、畢竟先生から私への御たのみもそれなンですよ」。

「えツ」と矢部もまた驚く。「何ですと、夫では金先生が私に女裝させるために貴女へ御たのみに爲ツたんですとえツ」。

「ですよ」と聲をひとめた。「金先生はあなたを一目して女裝させて間者に遣ふには倔強と考へて、私にもその意を通じ、よく精神を深く見た上で、その秘密を明かせとの事なンですわ。もう可いから明かします。女禮式や何か習へといふのはそのためです、それから身體のこなしを極めて掛からなければ化け通せられませんからね」。

 絲子も機先を制せられた氣がしたが、矢部もまたその感が有る。が。實に、實に、ふるへる程うれしい。おもしろい。且つは金玉均の眼力、絲子の度量、それに又怖いやうで。

「よツく分かりました、一生懸命に修業して芳志に答へます、决して决して倦まず疲れず」。

「しかし女裝の御かんがへが貴下にも御有りでしたのですね。兎に角是からは婦人の態度を學ぶのが何よりで、それ故金先生からも手紙に矢部は女禁制だと言ツて居るが必要次第迷はぬ限り公然と許して女郎買ひでも何でもさせてくれと此とほり書いてありますよ」と失笑した。

 手遊物にされるやうな氣がして、一向に信ぜぬ體、さらば此とほり其文面のところを出されたが、更に讀めない、その筈耶馬臺の詩のやうな秘密の書き方なので。

「あ、さうだ、讀めますまい、秘密書だツけ。それぢや先讀まぬとして、まツたく嘘でないのですよ、宜うございますか」と又失笑された、矢部も終に笑ひ出した。

「何から何まで駭くといふのみです」。

 「しかし好い口實が有ツて遊べますわ」。

「飛んでもない御許しが出たものです」。

 斯う受けこたへはしたものゝ、心中々それどころでない。

「いよ〳〵女裝のできるやうに爲りましたら、朝鮮へでも參るのでしやうか」。

「私にはよく分かりませんが、是非然うでしやう、事に因ツたら清國の内地へでも、既にその例が有るのです。金玉均さんの身を狃ふ同國人の曲者が有りましたところ、見破られて素早く逃げて、妙に遠くまで行ツたもので、露領の何とか云ふ所へ落ちましたの」。

「浦鹽ですか」。

「いゝえ、覺えにくい名で、忘れました。しかし捨て置けない。すると丁度其地に醜業婦に交ツて居る女の間者が居たもンで、それから人をやツて是々と密告し、その女の間者が勇んで承諾しましてね、時機を見て刺し殺さうとする内に、あなた殘念にも敵にあざむかれて、あちこち引きまはされ、とう〳〵行方知れずになりましたの。多分殺されたのでしやう。」

「いつ頃ですそれは」。

「つひ近い事、去年です。別段めづらしくも無い事ですけれども可愛さうですわねエ」。

「醜業婦と一口に言へませんな、えらい烈女ですな。嗚呼婦人でさへ然ういふのが有るのに、思へば思へば故郷のくされ儒者、ちツ、罰あたりな奴」。

「そこでね、矢部さん」と絲子は一段あらたまツて、「事が然う分かツた以上は必ず赤心をもツて貴下も萬事爲さツて下さるのでしやうね。勿體つけるのでも有りませんが、金先生と言へば天下屈指の志士、その人に貴下も知られたのですからね。さうすれば明日からでも日々私どもへ通つて御出でなさい。止宿させてあげるといふ事は御承知のとほり令孃がたをのみ御預かり申して居る私どもの事ですから少々不都合ゆゑにね。それから教授の時間は午後四時から二三時間の事としましやう。それでどうか一日も早く」。

 言葉途絶えれば我のみ顏にひとり夜の寂寞をやぶる時計の刻み、心づいて時刻を見れば、既に二時半を過ぎて居る。

「おゝ大層更けたこと、と言ツて夏でありませんから曉方まではまだ中々。御やすみなさいますかすこし」。

「いえ、どういたして。いつそ今晩から御苦勞でも稽古のはじめを」。

「そりや可いでしよ」と絲子も勇んで、まづ女禮式の教授となツた。

其十二

膽から揉み出した熱心は著しき進歩となり、二月ほどの間に矢部もその修める女禮式をはじめとして、茶、花、琴の三科目に至るまで大方好い加減に熟して來た、丁度朴泳孝と打ち合はせる事が有ツて二三の同志と共に金玉均は二月ほどの間都門を去ツて京都の地に行き、十二月の終りの頃歸ツて來て、島田絲子を音づれた。

 何よりも先なのは矢部の身の上で、萬事の修業が大いに進んだといふので玉均も悦んだ。

「何も矢部をして女禮式や茶の教師たらしめるのでもなし、言はゞ方便に過ぎンのですから、程よいところで女裝させて、かねての目的どほり使ツたら可いかと思ふンですが、どうでしよな」と金玉均まづ口を切ツた。

 絲子も然う言はうと思ツて居た矢先とて、その尾につゞいて、

「御同感でございます。變生男子と言ツても可いくらゐの體、それに本人が非常な熱心ですからもう大丈夫でございますよ。此間の夜、そツと人を遠ざけて、婦人の服裝をさせて見ましたところ、大變に似合ひますの。唯まだ困りますのは髮の毛ですわ」。

「なるほど是は困るな。まだ今の儘では附髷とか言ふのも附けられますまいな」。

「できませんね。毛を伸ばしてやう〳〵附髷とするまでに早くも三月は要ります」。

「勿論急ぐでも無いけれども」。

 蜜話の室とて戸口に錠も下ろしてある。外から下女がほと〳〵敲く、起ツて絲子が錠を開ければ、

「矢部さんが御出でになりました」。

「あ、さうかえ、すぐと此所へと」。

 下女が引きさがると程無く矢部が入ツて來る。戸はまた前の如く牢く鎖された。

 絲子と玉均とに丁寧に禮を施して、やがて矢部は絲子に向かひ、

「御使者により宙を飛ぶ計りの心もちで參邸いたしました。金先生の御歸りをば一日千秋の思ひでお待ち申して居りましたので」。

 我知らず癖が付いて、言ふ物ごしも甚だやさしい。金氏笑みかたむけた。

「妙々、男裝の婦人と見える、僕も早く君を見たかツたが、是程よく爲らうとは思はない、島田さんの天晴の薫陶實に大いに感謝すべした。ところで、君、矢部、あらためて僕から御咄しする事が有る」。椅子を向けなほした。大方は島田さんからも聞いたから無益なるところは言はぬとして、其髮の伸び次第まツたくの女裝して、いよ〳〵吾々のために働いて貰ひたい。朝鮮の運命次第に因ツては日本も如何なる難境に陷るかも知れんと云のは君とても知ツて御出でだらうから、やはり痛痒を共にする吾々のために君が働らくのは君が常にいふ至尊に對し奉る間接の忠義なのだからね」。

 御ためごかしと言はゞ言ふ、さりとてそれに違ひないと矢部も心地わるくも無い。

「誓ツてそれは、身を賭しても」。

「もはや君を一味の人と思ふ故にね」。

「ありがたうございます。如何なる事でも力のかぎり」。

「差し當たツて頼みたい事も有るが、その髮の毛の伸びん間は奈何とも仕方が無い。大秘密の事ゆゑ委しくは今言へぬが、兎に角支那へ行ツて貰ひたいので、それだけは今から心得て居てくれたまへ。差しつかへ有るまいね」。

 さも嬉しいといふ樣子で、「差しつかへ有るどころではございません。唯すこし困りますのは支那語で」。

「筆談で間に合ふさ。一寸した會話の書物は吾々の方にあるから島田さんの御手許まで廻附して置かう」。

「それならば好都合でございます。行く迄に潜心熟讀して置けば………」

 金氏何故か微笑した。「深く氣にするにも當たらんよ、大いに支那語を用ゐる必要も無いのだから、主として君を紹介する人は日本語を話す人だから」

「なるほど在留の日本人で」。

「さうでも無いがね」と又微笑して、「今それは聞かん方が可い、只君がその心得であれば可いのだ腹が空いた。島田さん、三人で洋食でも食べに行きましう、ね、御一所に、矢部、君も來たまへ」。

 三輛の車が命ぜられて、一同何處とも無く出で去ツた。

其十三

大磯の某子爵の別莊の一閑室、もとより夏を旨として造ツた見晴らしの好い處で、今六月とは言ひながら障子殘らず明けはらツて、床柱に身を凭せながら、一美人と物がたりして居る一個の紳士は岩田周作、即ち亡命の韓客金玉均。

「いくつ位に見えるの」と何やら問ふ。

「さやうでございますね」と美人はしばらく小首を傾げて、「二十二三でゝも」。

「ふム、老けて見えるかの」と深く感じた樣子。「が、美人だろ」。

「おほゝ、もう御自惚で、……申し上げやうと思ツた矢先を挫かれては何とも最う」。

「僕の妾と言ツて怪しみも爲まいな誰も」。

「仰やらずとも誰だツて、直ともう然うと思ひますわ」。

「な、なぜツ」。

「御前さまがあんな美くしい方を打ツ捨ツて置く法が迚も。御評判ぢやございませんか、御婦人の事に御かけ遊ばしては。おツ、何日か可笑しい事がございましたよ、伊藤さまが御前さまの御噂を申しあげて」。

「伊藤とは、伯爵か、博文伯か」。

「はア。艷文に於ては乃公も隨分富んで居るが、亡命して他國へ行ツて居る間には何う有らうか。相應に驅り立てるだらうとは思ふが、しかし金玉均ほど遣れるか何うかまだ解らない。金は兎に角亡命の外人であツて日本の婦人を撫で斬りにする。又よく撫で斬りにされる。と、仰やいましてよ。席にいろ〳〵な方が御出でゝしたが、皆さま大笑ひで、而も何れも樣皆御前さまの御手の内には敬服であらせられましたよ」。

 椽に擦り足の音が聞こえて、やがて一人の下婢があらはれた。

「奧さま、さき程の荊子さまが」。

「御見えになツたの」と美人はふり返ツて、更に玉均に向かツて、「御歸りですと」と微笑する。

「どうぞ此處へ」。

「御待ちかねよ」と又にツこりして、「それぢや直御通し申して」。

 下婢は心得て去る、間も無く徐ろに入ツて來る一美人、言ふ迄も無い舊の矢部道任、今は間部と僞姓して、名は荊軻に因んで荊子と呼び做す、明治に珍らしい怪物である。

 水色セルの單衣に御納戸繻珍の帶、赭熊づくりの反りかへる程の鴨脚がへしで、一見どうしても婦人である。

 しとやかに、「奧さまどうも先程は。つひ遲くなりまして。子爵さまは唯今碁をもう些しで御仕舞ひにならせられるからとの事で、もう程無く御歸りになりましやう」と言ツて玉均の方をも見た。

「ふム碁か、久しいもンだ。それなら待たう」。

「私は、さやうなれば一寸あちらへ退ツて居りまして」と其奧樣と言はれる美人が、如何なる粹か、粹を利かせる。

「はゝ、それでは」と玉均も引きとめない。

「荊、もすこし此方へ」と玉均は矢部を近づけて、「今徒然のあまり今の人に試みて見た、君を眞に婦人と思ツて居るかどうかと」。

「は、如何でしたか」と且微笑し、且前後を見まはして言ふ。

「面白いな、眞の婦人と思ツて居る、その語氣から推しても」。

「眞にでしやうか」。

「眞にだ。今こそ子爵の愛妾ではあるが、以前は藝妓までして來たあの人さへ眞の婦人と思ツて居るくらゐなら充分だ。支那や露國に行けば猶の事わかりは爲ない」。

「唯そればかり苦心して居ります、馬脚を露はさないやうにと。子爵が御愛妾に實を御告げになる事はございますまいな」。

「どうしてそれは。國家の一大事だ。一婦人などにどうして」。

 卒然として人の來る氣色、見れば主人の子爵である。

「おツ金先生御待ち遠でした。しかし美人が御相手ですから、あはゝゝ」。

「しかし畫にひとしき美人、之を觀るべし、之を弄ぶべからず」。

「偶にはそれが可い、韓國の社稷のため、あはゝゝゝ」

其十四

子爵は陸軍少將で、激烈な帝國主義の人である。座が定まれば餘事は語らず、

「此室での咄しならば洩れる氣づかひ無い。何にせ、御打ち合はせ通り直にも矢部君を遣るのですな。兎に角一應の順序として金先生貴公からお咄し下ださい」。

 玉均うなづいた。やをら潛める聲の底には一種言ふべからざる凄味も有る。

「矢部、いよ〳〵行ツて貰ふのだ、支那へ、君に。ところで最早君の心底も解ツて居るから打ち明けるがね、支那では日本の國防の猶よく備はらんのに乘じ數年を出でずして日本を侵掠するつもりだ。連坐するのは我國朝鮮さ。目にこそ見えね、東洋の危機は一髮に係るといふ位で、實に國家のため君が如き志士は珠玉よりも貴い、僕の咄しから此子爵閣下も非常に君に望みを屬して居られて、殊に君の女裝も最早充分によく出來るやうに爲ツたから速かに派遣して任務に當たらせたいと言ふのだ。美事行ツてくれるだろう」。

决然として、「かならずです。一日千秋と待ツて居りました位」。

 玉均語を繼いだ。「行く先は遼東半島で、有名な牛莊といふ處でね、其處に日本で言へば鎭臺と言ふべき所に奉職して居る李朴といふ武官が居るその人を尋ねて行くのだ」。

子爵は急に言葉を插んで、「その李朴は乃公も知ツて居るから金先生と共に乃公からも添書をあげる。そこで同人を尋ねて行く幼兒といふのは支那で朝鮮や我國に對する軍機がどの邊まで進行して居るかと云ふ事を探るためだ。特別の便宜と言ふのは其李朴と言ふ男は例の袁世凱ね、あれと親友で、又た宋慶といふ將軍には大いに信任されて居て、参謀の格にさへ用ゐられて居るといふ點さ」。/p>

 矢部やゝ當惑した。相手が敵國(と若し言へるならば)の參謀とも言はれる武官である、其處へ行ツて軍機を探ると言ふ事、まづ手を下さぬ初からして困難は知れて居る、困難は厭はない。只それ重大な使命を完うし得るか何うかそれさへも覺束無い。

「困難と思ふかな」と金は顏色を見て取ツたか笑ひながら言ふ。

「困難と思ひまさア」と子爵が。

 玉均猶聲を忍ばせ、「心配したまふな、その李朴といふのは○○人だ」。

「ひえツ、それで支那の武官?」

「化けて忍んで居るのだ」。

 矢部は水浴びせられるばかりの心もち。今は言句も出し得ない。

 子爵はまた微笑を禁じ得ぬ。「それが我國の遠謀なので、他日の戰爭の避くべからざるを知ツて、既に十年も前から志士と言ふべき男を見立てゝ遣ツてあるのだ。李朴も今は純粹の支那人で、その妻女も支那人で、もう兒が二人も有るとの事だ。支那に取ツては所謂獅子身中の蟲だが、日本のためには無比の忠士だ」。

 矢部のおどろき益々加はる。且は敬服に堪へず、また勇みも添ふ。深く嗟嘆の聲を洩らして、

「やれ何うも。ても然樣でございますかなア。それならば譯も無い…………」

「ところが」と子爵はおさへて、「支那の警戒は又非常だ。知らせたいと思ふ秘密が有ツてもうツかりとは信書にしても出せんので、隨分悶えて居るらしい。だから特別な使者を立てるので、又氣を利かして覺られんやう行ツて貰はなければ爲らない。覺られたら死ぬ、此心無くてはならんのだ」。

 その後をば玉均が受け取ツた。

「まづ李朴へ近づくには旅宿から使ひに僕の第一の書状を持たせてやツて兎に角呼び寄せ、來たところで、第二の書状を見せるのだよ。第二の書状に秘密の用務の事を書いて置くから、それは是非とも手わたしてなければ危い。それから種々の秘密を聞いたら、及ぶだけの手段を盡くして書き記し、それも亦萬一他に奪はれても解からんやうにとね。豫想すべからざる臨機の處置は素より膽をもツてするのみさ」と一息吐いて珈琲を飮む。

其十五

金玉均些しく考へて、「或ひは先方の都合で、君をして李朴が更に支那内地、もしくは朝鮮、又は露國へなども入り込むやうに依頼するかも知れんが、今は成るべく手間取らぬやうにし、肝心の用向き、即ち日韓二國に對する支那の軍機がどの邊まで進行して居るかと云ふ事だけな探ツて、齎し歸るそれで先充分だ。子爵」と秋子爵の方を見て、「その方が御都合でしよ」。

「まツたくです」と子爵秋少將は點頭いて、「御承知の如く何と無く此頃の形勢が暗におだやかならぬ兆候を示しとる際ですから、兎に角一旦速やかに立ち戻ツて報告して貰ひたいです。矢部君、そのつもりでな」。

「何れとも貴命の儘に從ひます。應變の手段は素より只今申すことも出來ませんが、一片國家に盡くす熱情、また知遇に對する感謝、その箭竹心を操として、誓ツて效果を收めて歸ります。併し出先の事、或ひは不慮の事が無いとも限らずもしその樣な場合ひに遭遇する事が有りましたなら、斷言します、唯一の死、死を期して御迷惑にならぬやうに致します。それだけは矢ツて」。

「それであればこそ頼む」と宛も嬉しげに子爵は笑む。「どうせ一戰爭有る。そのため、君、大事な命だぞ。巳むを得ん時にこそ死ぬべしだ、慌てゝ失ふは勿體無いさ。表向きの武人は武勳も世に赫くが、君がたの方は然うは行かぬ、ところを其樣な利慾や名譽をかへりみず、一片の至誠から軍事探偵と爲ツて外國に行くといふ日本魂は深く敬服するといふ事を乃公は君に餞別として一言する。その代はり君の成功如何によツては乃公からも上聞に達するから」。しみ〴〵として言ふ。

 猶色々な秘密の打ち合はせが有ツて後、酒宴になツたが、素より矢部は女裝して居る事ゆゑ、その前とは樣子がらりと變はツて、飮食する具合ひまでが宛も〳〵しとやかに肅ましい。意味に於ては祖道の宴である。が、秘密を期する事ゆゑ子爵はじめその席に陪する我が愛妾にさへ其邊を氣ぶりにも見せぬ。

 潜かに拵へた手荷物は既に停車塲前の茶店に預けてある。子爵の妾などには一寸した用で東京發神戸直行の終列車に乘り込む事に言ひ做して、その夜すぐに出發した。

 その夜一夜の矢部の感慨は實に千萬無量であツた。かねての希望がやうやく達して、身は女裝までして國事に盡瘁する事を得るやうに爲り、今や隣國とは言へ、外國たる支那へ渡ツて、而もその軍機の秘密を是から探らうと云ふ、愉快とも名譽とも言ひやうの無い、境遇に立ち至ツたのはそも〳〵夢か將現か。一大事を依託されて無經驗の背に負ふて起つ、而もその任務は兩國の外交に偉大なる關係を有する事と思へば、何と無く空おそろしい心もちもして、同時に又それ程の大事を委託した金玉均の胸懷の宏大無邊なのが殆ど神靈の活動する如く思はれる。

 夜行滊車に美くしくて且妙齢な婦人の身を以て乘り込んだものと見えるので、一車中の人や々怪しみの眼を以て迎へたが、さすがに美人と見える一徳には快く席をも讓られた。婦人らしく見せる身だしなみは此處ぞと思ふので、席は讓ツてくれても故意と男子の方を避けるやうにし、良家の妻女と見える人の側に會釋してしとやかに坐した。

 夜行のさびしさ、その人の娘と見える女の兒も既に眠ツてしまツて、妻女ひとり退屈して居た折とて好い咄し相手が出來たと悦ぶ樣子で、妻女の方から言葉をかけた。

「お一人でございますか、嘸御さみしう御座いましやうねエ」。

「はい、急用の出來ましたもので」。

「ご遠方でございますか」。

「はい」と言ツたのみで迂闊とは言はず、まづ相手から調べに掛かる。「やはり御遠方で」。

「私どもでございますか。京都まで」。

「おや左樣で。私は神戸まで。女の夜行滊車の一人旅は本當に否でございますわねエ。しますると京都までは御一緒に參られて御蔭さまで私も心細うございません、おほツ」。

「いえ、私も御同樣に」。

「あの明日何時頃神戸には着いたすので御座いますかねエ」と故さらに空とぼけて。

「ほゝゝ、私もつひ存じませんで――何時とか申しましたが。その癖この街道を只今始めて旅行いたすのでもございませんけれども、婦人と申すものは意氣地の御座いませんもので、いつも同伴にもたれて居りますもので、ほゝゝ」

「さようでございますねエ」と嫣然微笑した風情は女も惚々となるほどである。

其十六

身を謹しむので滊車の中でもさながら物思ひでもある樣子を粧ツて、成るべく人と口をも利かぬ樣にして、あくる日の午後矢部も神戸へ着した。何處が氣に入ツたか、例の同車の夫人もしきりに親しい言葉を述べ、京都で別かれる時はわざ〳〵其良人の名刺までを呉れて、是非訪れて來てくれとまで言ツた、その名刺を見て又も驚く、その人と言ふのは音に聞こえた非役の軍人で、何を目的とも無し常に日清韓三國を往來して居る人で、その人と金玉均とは政治上との意味から是また親しく交際する間がらとは矢部も既に玉均から聞いて知ツて居たのである、一驚を喫したが懷かしくもある。我身の上を名乘りたいのも山山ではあるが、辛く控へて、例の僞名たる間部荊子といふ名刺をわたして、飽くまでと一婦人の體で其儘に袂を分かツた。

 その夜神戸の一旅店に止宿したが、入浴を勸められても個より應ぜぬ、二月や三月ぐらゐ身の垢は落とさずともとは豫じめ决心して居る事とて。

 内地を離れるまでは一々止宿する旅宿を知らせろと玉均にも言ひ附けられて居るので、此夜まづ第一回の電報を大磯秋子爵別莊方金玉均宛にして發し、やがて程無く臥床に入ると、怪しくも秋子爵の名義で返電が來た。

 必要も無いと思ふのに返電、さても何事かと胸やゝ轟いて、前後見まはしながら開封して見れば暗號の長文である。急いで暗號表を胴卷きから取り出して、對照して譯し出せば、偖も意外、左の意味が出た。

「女裝男子といふ事が當地(大磯)の刑事巡査に知られ、その意味行く先の警察部へ打電されたから注意しろ。思ふに高等探偵も尾くであらうし、又調べられるかも知れぬが决して狼狽するな。已むを得ぬ時となツたら乃公が渡した添書を秘密に知事か警部長に見せろ。兎に角大至急内地を離れる樣にしろ」。

 さすがの矢部も舌を捲いた。女裝男子と知られたのは警察眼が鋭くては、乃公の化け方が拙くてか、但しさばかり拙いとも思はれず、然らば警察眼が一歩を抽くか、何しろ一大戒心を要する事で、兎に角調べなど受けぬ樣に逸早く日本を去らねば爲らぬと、早い翌日の出帆が待ち遠で堪らなくなツてその夜は目も合はない。

 やがて翌る日と爲ツて無事出帆することとも爲ツた。只ならば船に乘り込んで一安心すべき處を、一切に戒心と懈らぬ處から船中の人ことごとく探偵のやうに見えて、唯薄冰を踏むやうな心もち。次第に乘り出すに從ツて人情として稍心も落ち着いて、更に又長崎などへ寄港する度毎、またをかしな奴が乘りはせぬかと、見ぬふりして見る眼がいとゞ鋭くなる。

 しかし無事であツた。仁川へ到着して漸く飛行自在の氣もちに爲ツて、且は始めて見る韓土の風物の珍しさに身長一寸も育ちさうに思はれる。一二時間休息したゞけで、別の船に乘り換へてその儘目的地へと急がせる間も、一々重要な視察をゆるかせに爲す、同船の韓客清人などの談話の模樣にも解らぬながら耳を傾け、又それらの烟草の喫みぶり、手眞似の仕方に至るまで一々細かく觀察したが、兎に角美人の獨旅、日本の名物たる醜業婦としか思はれぬので、色々な事言ツて揶揄はれる。その見あやまられるだけ、其揶揄はれるだけが、つまりは巧みに化けた効と思へば、煩はしくも無ければ癪にもさはらぬ。

 いよ〳〵目的地へ到着して李朴の居るといふ淞河といふ處を尋ね、程近くに在ツた金花坊といふ旅店へ投じ、金玉均と秋子爵とに言ひ附けられた通りの手續きで、直ちに添書を使丁に持たせてやると、半時間ほどで返書が來た。簡單ながら日本文で、

「委細承知仕候今夕八點鐘より光臨可被下萬縷其節御咄可申上候」。

「日本文は可い。八點鐘はやツぱり支那にかぶれて居る。うツかりと書いたのだろうが、其うツかりと云ふ所に着目すべき所が有る。知らず識らず感化を受けるのは誰とても同じ事だが、此所だて、大いに注意すべき所は。或ひは其居る處に慣れているか飜へすとも無く、志しを萎やすに至る事も是だから有るのだな」と暫らく深く思ひ入ツた。

其十七

李朴の密話室にはや矢部と兩人初對面の口誼も濟んで重要な談となツて居る。李朴もとより日本人、談は小聲の日本語で、

 金玉均先生も嘸かしご辛勞でしよな、僕からも色々通信してあげたいと思ふ事が有るのですが、殊に、殊に此頃は政府の取締が嚴重なので――甚だしきに至ツては日本行きの信書は開封する事も有りますからな」。

「そのやうに金氏からも秋子爵からも承りました。無論死を期して參りました事ですから、何を伺ツても御迷惑になる樣な事は致しません」。

「あ、さうです。僕一人の迷惑で無く、な、それそのために國籍を脱して支那人となり支那の軍務官に住み込んで居る僕でしよ、國家危急の場合ひ、早く露顯して事を破るは此上も無い不利益ですからな」。

 危急といふ語は肝にこたへた。

「危急、きはめて危急なのですか」。

「充分危急と言へますな。」李朴は宛も前から然う思ツて居るので、今更驚いて言ふ程の事でないと思ふらしく平氣で居る。

 最早見せやうとて用意してある軍機の秘密書類は座右に堆くなツて居る、其一つを取り出して、

 まづ是が重要の件ゆゑ最初にお咄しゝます。書き取りますかな」。

「はい、無論」と慌てたやうに手帳を出す。

 是御覽なさい、此繪圖、是は二ケ月前に調製して我々の方へも回附して來たのです」と李朴がやをら繰り開く地圖をさし覗けば思ひ設けぬ日本ので、日本而も中部ので。

李朴は一々指點して、「それ此處が敦賀港で此處が金澤鎭臺でしよ。それから其反對の方面、其處が名古屋の第三師團で、其傍が武豐の軍港でしよ。是だけの地圖を作るまでの苦心は一方ならなかツたのです。北は若狹の小濱から越後の新潟に至るまでの沿岸、南は志摩の鳥羽港から駿河の清水港に至るまでの沿岸、是だけの日本々土の所謂中腹を此支那では大いに目掛けて居るのです」。

「目掛けるとは何ういふ事で」。

「ですからな、是此處から斯う中斷して朱線が引いてあるでしよ、此敦賀から反對の名古屋に至るまで」。

「なるほど有ります」。

 李朴一層聲をひそめて、「この敦賀名古屋間が日本々土中一番幅の狹いところで、これ故精しく斯う地圖にしたのです。開戰となれば此支那の今の戰略まづ此地點に取ツて掛かるでさ」。

 矢部もぎよツとした。水浴びせられる氣もちがして、

「狹い、如何にも本土中では此邊が。それでは此處を衝くのですか」。

「さうです。敦賀を破壞し、名古屋を破ツたゞけで日本東西の聯絡は既に全く絶えるでしよ」。

 驚く、驚く、いよ〳〵驚く。

「で、日本を中斷するのですな」。

「殊に幅の狹い箇所ゆゑ中斷するにも便利です。此所を中斷すさすれば日本の死活は自由であツて、仙臺や大阪に師團が有ツたところが實際どうする事も爲りませんや、鐵道や電信が有らうとも。大事ですぜ、此邊の防備が。すでに此地圖に從ツて此間も劉將軍の麾下の兵で演習もして見た位、それには北洋艦隊の意氣込みといふものは又格別ですからな」。

呑むどころか微塵にする氣です。實戰を經なければ解らんですが、見たのみでは日本艦隊よりも優勢であり、士官にも有爲の人が多く、洋人も雇ひ入れてあり、殊に丁將軍、然樣、汝昌氏の威望は非常に重いですからな。それには又聞くところに因れば、日本海軍部内で樞要な地にある人をはじめとして、其自國に同樣なものが無いといふので、甚だしく鎭遠と定遠とを怖れて居るさうですて」

「でも眞逆に」と不興氣に。

「いや確かな處から聞いたので、僕は一概に嘘とは信じませんな。それだけ猶北洋艦隊は勇むので、いざといふ際敦賀名古屋へ向ふつもりに充分爲ツて居ますて。それから憶ひ出したから心得のため言ツて置きますが、やツぱり此の國からも妙に日本を仇敵のやうに思惟して、北洋艦隊は又餘計な昔の元兵が筑紫で破られた其復讎でもするやうな氣ですからな。此一事はよく〳〵君も氣に銘めて、歸ツた上で御存じの軍人なら軍人に御つたへ下さい。何の、何の、日本からも臆病な心を出さず、仇敵と見て戰ふが可いのでさ」と聲やゝ力を加へて來る

其十八

李朴は嗟嘆しながら語を繼いだ。

「日本の事は殆どもう今と爲ツては私には解りませんが、支那で是ほどに戰爭の準備をして居る事を實際日本で知ツて居てくれますかな、勿論偵察の方法はあらん限り工夫を廻らして有るには有りますけれども。何せ、歸朝なさツたら開戰の準備は着々として行はれて居る、のみならず進行して居るといふ事を重大の件として御傳へ下さるやうにな。おツ、然うだ」と手を拍ツて微笑した。

 貴下、海軍の將官中に御存知の人が多くありますか」。

「いや」と些しく恥かしさうに。

「有りませんか」と李朴また笑みを含んで、「御心得までに言ツて置きます、思ひ出したから、實は若し御交際が有る言なら、苦言ながらも一つ忠告しでいたゞきたいと思ひますので」と阿片入りの烟草をアルコール洋燈で吸ひ付けて、「おそろしいものですな、此頃では此とほり阿片を喫るやうに爲りましてな、と言ツても一片忠烈の念のみは矢張り銷磨しませんて」と笑ひながら凄味が有る。

「何氏への御傳言?」

「と言ふ程でもありませんがな」と又聲をひそめた。

「惡い評判が澤山あるやうですな、○○とか○○などが將官や司令官だから日本も頼もしいものだと丁將軍が然う言ツて居ましたぞ」。

「提督汝昌氏がですか」。

「ぶツ、然うです」と笑ツたが眞面目になツて、

「丁汝昌が何と云つても實際、軍にさへ強ければ。ところが役に立つ人が極めて少ないですな。丁將軍が言ツて居ますぞ、いつでも海戰爲ツた塲合ひ、○○が司令官とでも爲ツて出たなら美事日本艦隊を殲滅に歸してくれる、又日本政府も此方の望むとほりに同人をその役目で出すらしいと、斯うまで言ツて居ますぞ」。

 聞いては快くも無い。さりながら忠告の言と思へば無念を忍んでその要點を書き記して、更に矢部はあらたまツた。

「委細よく解りました。就て伺ひますが、數年ならずして日本と開戰しやうと言ふ此支那の方針は畢竟一二の政治家の策略に出づるものですか、それとも國民一般の意向によツてゞも…………」

 言葉なかばで遮ツて、「國民が何を知るもンですか。煎じつめた所を言へば某々大臣」、矢部が心得かね顏つきなので、更に説明を加へる語氣で、

「○○○○と○○○○○と結託して生じた計畫で、それに丁、劉、依、宋などの有力な武將の聲援、中華黨の雷同、小才子等が」、又聲をひそめて、戰爭して己れの地位を高めやうとの野心それらに因ツてゞす。但しな」と又微笑した、「今の支那人こと〴〵く日本を侮ツて居る、それだけが面白いです、な、鋭意日本に於て力を貯へれば却ツて戰爭が日本の利益になるかも知れず……」

 憤然として、「かもどころでは!」

「全く、全く」と愉快に笑ツて且つうなづき、「今年は日本では明治二十……貴下、此頃のやうにこの支那で軍備の進行を急いで居るところを見ると、戰爭は遲くも五六年の内――明治二十八九年頃までには必らず始まりますからな。無論ですとも、朝鮮問題がその導火で。危ふいですよ金玉均氏の命が今非常に。居ましやう日本に李逸植が。刺客の名人、間者の親玉で、而も多分の手當を貰ツて、今日本の何處かの温泉か何かで遊んで居るさうで………」

 言葉たちまちぱたりと絶えた、のは小价が密話室の戸を敲いた音がしたので。

「等片時(少し待て)」と李朴は高聲で言ツて矢部に目くばせし、自ら起ツて戸を開けば、小价無言で一封の信書を出す。披見してうなづいて、「拜領……」とそれから何やら簡單に言へば、小价一揖して立ち去ツた、後をまたぴツたり閉ぢて、

「一大急用 すぐに軍務都統のところまで來いとの事です、いえ此僕に。或ひは知れません、貴下の事かも」。

其十九

急用との事で李朴が都統の所へ呼ばれては矢部一人殘ツて居るのも具合ひがわるく、更に明朝の會見を約束して後、わが宿と定めた金花坊へ立ち歸る途すがらも、矢部自身の胸中、偖李朴の妻女などが何のやうに思ツて居るかは殆ど推し測られぬ迄であるだけ、又それだけ探ツても見たくなる程であツた。

疲れて居る事とて其夜はぐツすりと寐て、流石に朝は早く五時頃に覺め、すぐに身支度して李朴の所を音づれたが、腹の中ではまだ相手は寐てゞも居るだらうと思ツて居たのを、早起きて居るといふので大に驚き、更に密話室へ入れられて昨夜一夜丸で寐はせぬと聞いて又驚いた。

 又々李朴は聲を潜めて、「どうして寐られるもンですか、君、一大事が有るのですもの。好都合でした、君の來られてあるのが。君の身も、しかし、程無く危くなりますからそのつもりで。行ツて聞くまでは急用と言ふ故、萬一君の身の上かとも思ツたです、が、さうでも無かツたから一寸安心しましたが、併し一兩日中には然うでもなくなる、今が然うでないからとて决して决して油斷は迚も」。すこぶる亂雜に言ふ。

 此人が是ほど亂雜に言ふ所を見れば、何さま一大事件が發生したらしい。而も一大事件と言ふ以上は自家に取ツて多くは不利益である事是又知れて居る問はずとも李朴の方から説き聞かせてくれるのは解ツて居るが、扨慌て氣味でむしろ催がさずには居られぬ。

「それは又何事で、いづれ國事でゝも。伺はぬ前から氣になりますな」。

「とツくりと御聞きください」と冐頭を置いて眉を顰めて、「金玉均氏の生命が危いです」同氏を刺し殺しにと日本へ行ツて居る李逸植の所から今日急電が來たので、即ちその意味は同氏を殺すに好都合な事が有る、それに就ては中華黨――この支那のですな――その内の有力な人を至急派遣してくれとの事でしてね」。

「都統の所へですか」。

「いや其懇意な中華黨の一人、名ですか、張璞と字を書く、紅子と綽名でよく通じて居る頑固親爺の許へです、今日。それで都統が僕へ相談と、言ふより寧ろ命令でな、日本の機先を制するには究竟だから一人を派遣する、最も大事件と言ひながら一の亡命韓人金奴を片付けるだけの事ゆゑ、自分の一存で斷行するつもりで、さしあたり人を考へて見る處で阿唐が適當だらうと思ふが、其處で君――と言ふのは僕ですよ――君は倭國の事情にも通じて居るから至急萬事の心得を阿唐に授けてくれろとのことでさ」。

「ふム面白いな」と矢部稍落ち着いて微笑すれば李朴も落ち着かされた容子で、

「それだから承知して歸ツたです。その阿唐といふのは綽名で姓は矢張り李、名は之平、此支那の非役軍人で、武にも達し、随分鋭い人物で、李逸植と二人揃ツたら或ひは大事を成しかねません男で、それから又もう一ケ條」と一入嚴肅に搆へ、「金氏を殺して目的を果したらその儘日本に同人を滯在させて、また軍機の秘密を探らせやうとの都統の决心です。何しろ書信では危險であるし、是は一まづ君が至急歸朝なさツて金氏に警戒を加へさせるに限ると僕は思ふのです。歸朝して君が報告すべき此國の軍機の秘密は出來るだけ速かに寫し取ツて成るべく早く御歸りなさい。もうそれに越す策無し」。

 語り訖ツて汗を拭く、矢部稍考へ込んで居た。

「良く解りました。吾々の耳にその事の入ツたのは天助とも言ふべき事、愉快です。そこで伺ひますが。私が斯くの如く女裝して當地へ入り込んだ事はまだ其筋の注意に上りませんか」。

 身を入り込ませて、「まだの樣です」。

「まだならば面白いです」と又身を摺り寄せて、

「先へ出掛けず私は其李之平といふ人に尾行しましよ」。

「ふム、なるほど、大きにな」。

「事に因ツたら寄り近づき交際を求め、欺きもし、探りもし、臨機の策を施しても――時宜によツては或ひは刺す………」

 首かたむけて、「どうかな、そりや。危險でしよかな」。

「いや注意して行るつもりで――勿論見料らひですとも。具合ひよく行けば李逸植とも近づいてその擧動をも探ります。

然ういふ事となると愈々私は一刻も早く當地だけ立ち退いて其筋の注意を免れ置き、出帆の時から夫と無く同船に乘り組むに限ります」。

 李朴もうなづいた。「強ひて僕から君に命令を施す權利とて無い事ですが、唯大事の前の小事、僕は兎に角日本帝國の不利益とならない樣にして下されば…………」

「もとよりですとも」と凛として、「その事は誓ツてゞす。すると又その李之平とかいふ男を餘所ながら見知ツて置きたいですがな………」

「丁度好い、寫眞が有る、然樣手許に」。

「上々吉」

矢部がその奇才を弄する時機は爰に到着したのである。

其二十

其外に矢部が李朴から傳はツた、即ち支那が 日本に對する軍機の種々の秘密は流石に書くを憚る所も有る故、遺憾ながらその方の筆をば省いて、直ちにその後の咄しに移れば、矢部はわが思ふ如く充分に李之平の人體を認識して置いて、それと無く尾行して同船して日本へ歸朝する事と爲ツたが、扨さう爲ツて見れば李之平に寄り近づくのも自ら我身が顧られるやうで、容易でない釜山に寄港し、それから出發する迄は雙方一言をも交へる機會が無く、やがて釜山を出發しはじめて、今は躊躇しても居られず、甲板で顏を見合はせたのを機として、會釋して嫣然笑ツた。

 何が偖美人に笑ひかけられて心惡くも無い。さすがの李之平とても是が男子であらうとも知らぬ。又況んや金玉均を刺す目的で自分が日本へ渡航するのを早く知られて尾行されるとは思はぬ。又況んや其女裝の一美少年は恐るべき企望を持ち、凄まじい熱心を貯へ、驚くべき死毒と利劍とを懷にして彷徨まはる蝮蛇のやうな者とも思はぬ。

 笑ひかけられた故、李之平も笑ツて會釋すると、矢部道任、即ち僞名の間部荊子は我名刺を取り出し、差し出す序に鉛筆で、「船中旡聊幸乞筆談」と隨分不細工な文句でわが意を傳へると、偖も婦人にしては出來過ぎたと言はぬ計り、頗る驚いたらしい素ぶりで、その癖又一入にツこりとして、矢部の鉛筆を借りて、同じ名刺に「敬領敢請」との返事を記して見せ、直にわが室へと伴ふた。

「生意氣に上等室だな」と矢部は口の中で呟く。

 それからは無論筆談である。但し會話風に書かなければ興味も減るゆゑ、己むを得ず下の如く、

「何方まで御旅行ですか」と矢部から尋ねた。

「日本内地の漫遊で、もつとも日本には友人も許多ありますから不慣ではありますが、たのしみです」と何氣無く答へて、「貴女は又何御用で――御歸國になるのですか、それとも亦」と到底李之平まだ相手を一婦人と見たにした處でもその如何なる種類で又いかなる用向きで行くのやら歸るのやら更に察し得られぬのである。

「大變に取り込んだ事が有りまして、どうしても一旦歸らなければ爲りませんために」。心緒錯雜といふ顏色。

「何か御心配事でも」。

「さよです」と書いたが俄かに思ひ附いたらしく、

「失禮ながら貴下さまの御身分は」。

「一小官吏です」と輕く應ずる。

「軍事に關係でも」と知ツて居るながら故意に問へば、

「いや文事のつまらぬ職で。何か其方に御懇意の方でも」と相手も隙無く問ひかける。

 思ふ坪と言ふ心を色にも示さず、何と無く嘆息して、「いえ、朝鮮の方に御存じの方が御有りですかと存じまして」と意味有りげに答辭を記せば、之平も心稍、動くほどでも無いが、常では無くなツて、

「朝鮮の何といふ人、いくらか知ツても居ますが」。

 但し旨味を含ませてうかとは言はぬ。筆談をさへ宛も思案にくれる樣子で控へて居る。言ふ迄も無く李之平の好奇心は其思はせぶりで獎まされた。

「いづれ上流の人でしよな、軍務に服する人ですか、それとも文事に」と釣り込まれるとは知らずに問ふ。

 上流の地位の方ではございますが、實は欺かれました樣な事がございまして非常に口惜しく、先方の了簡次第しツかりとした覺悟をしましやうと存じまして」。

「その人は日本に御出でなので?、して又どうした御事情で。及ばずながら何も御縁づく、力に於て叶ふほどならば」と次第に籠中のものと爲る。

「御はづかしい御咄しでございますが、國は違ひましてもつひ不圖した事からその人と夫婦のやうな關係に爲りまして……勿論先方から強ひてと言ふので、决して私の方から望んだのでも無いのを、正室にするから是非と言ふので……」書きかけて筆を止めて潜然となる、その涙はその道を以てして欺かれる李之平の心胸を充分に攪亂した。

「それで契約に背いたのですか」。

 無言で絹ハンケチで目を拭ふ。

「日本へ逃げてゞも行ツたのですか」と筆で書いて示すと同時に李之平その肚の中、「こいつ些しく奇妙だわい、朝鮮の上流の人で日本婦人を妻として又捨てゝ日本へ行く、はてな金玉均ではあるまいかな」。好奇心いよ〳〵進む。

「言はゞ日本の流寓の身となツて居るのです」。

 之平の胸どきりとする。

「よほど前からですか」。

「はいもう數年の前からでして。本當に人を玩弄にした薄情きはまる詐僞師のやうな男でございます」。

 偖こそ金玉均だと、欺かれるとは知らず之平は大に心に勇んで、此美人利用するに不思議な好材料と圈套の油の臭氣に喘ぐ。

其二十一

「何と名を言ふ人ですか」と李之平いよ〳〵乘り込んで、「上流の社會の人、殊に日本と關係などの有る朝鮮の人土には私も可なり交際が有るのです。その方の名を伺へば又貴女の御助けになる事も或ひは有らうも知れませんから」。

「有り難うございます」。唯是ばかりが答へであツた、直ちに打ち明かさず、ぢらすのが此際究竟の手段と思ふので。

 李之平は二度三度返辭を促した。思ふさまぢらして置いて偖いよ〳〵打ち明ける事となる、その刹那の之平の顏つき又は目色がどう變はるか否やを目ざして居るのが此方の坪である。

「金玉均」

 唯この三字である。わざと隱して書いて、訖つて衝きつけてはツと見せた時の之平の顏色、何さま動いた。まぎらすのは微笑で、それながら流石に曲者、うツかりとは返事をせぬ。李之平は釣り込まれたとは知らず、我と我心から此間部荊子といふ一美人の尋ね行く相手は玉均であらうと推測して、その本音を吹かせるのをのみ目的とし、扨いよ〳〵その通り金玉均だと確かめたところでは却ツて自分がその知人であるといふ事を荊子に言ふのは安大事であるとも思ふで、玆に至ツて背負投した。

「金氏ですか、玉均氏ですか。なる程上流の人、また當代知名の英才、それで貴女を欺いたやうな不都合をしたのですか」と其問ひ方如何にも眞面目である。

 荊子の矢部は口惜しげに、「まるで詐欺師のする樣な事で、兎も角も他の事と違ツて婦人の貞操、それを唯玩弄物に……いつそ最う死んだ方が。もう覺悟いたしました、逢ツて一應怨みを述べて、それも亦返辭次第では唯死にません、女の一念でございますもの、叶はぬまでも道づれに」。ひそかに齒ぎしりの音さへ洩れる。

 稍呑まれた樣子で之平何とも應ぜぬ。

「婦人の身として如此事をお咄しするのを嘸はしたないと思しめしましやうがどうも實に口惜しさに、何もう破れかぶれでございます。自分ながら我儘の肝癪もちで、さう馬鹿にばかりされて指を啣へて何うしても居られません」。

 當たるべからざる氣焔である。その樣にして見せる故李之平も然う思ふ、この女美人ではあるが克ち氣の、むしろ所謂馬鹿である、いかに口惜しければとて初對面の同船の客に必死の事まで物がたツて好い氣のつもりであるのを見ても程度は知れる、こりや事によツたら此馬鹿を利用して或ひは故さらに扇動し玉均に近づかせて殺させるのも面白い、兎に角によく手なづけれ李逸植とも相談し、又その上にどうか爲やうと、十分に乘せられて得々として趣向を定め、それから矢部を自家の藥籠中の物とする氣で、或ひは獎まし、或ひは慰めその極終に心中の秘密の一端をも示すに至ツたと言ふのは李逸植といふ男に紹介しやうと言ふ迄になツた事である。

 その時李逸植は大阪中の島の旅館花屋に居た。李之平は夫を目的として來た事ゆゑ、船が神戸に果てるや否や餘所目も觸らず、直と滊車で出發してたちまち宿へと訪ひ音づれたが、色々に言葉をかまへて矢部をも同道した。

 待ち設けて居た事とて逸植さも嬉しげに之平を迎へ、矢部には解からぬ朝鮮語か支那語か、その何れかで何か噺して、たちまち逸植矢部に向かツて慇懃に禮して、懇意にしてくれとの意を片言まじりの日本語で言ツた、その樣子でも大抵わかツた、之平が逸植に此美人は玉均の妾見たやうで、それで是々の關係が始まりかゝツて居ると簡單ながらも言ツて聞かせて、それに逸植も乘り込んだ事と、

「金氏には賤生も二三回拜唔を遂げた事がございますが、いまはつひ懸隔して御無沙汰いたして居ります。貴女は是から金氏の所へ御出でになりますのですか」と逸植笑みを含んで聞く。

「どうしても參らなければ爲りません事情がございまして……今日も神戸から直行いたさうと存じましたところ、此李先生に御深切な御引きとめを受け、一日ばかりは長途の勞れを休めましようと存じまして」。

 はじめの應答は是だけに過ぎなかツた。金玉均を刺すために、それで逸植と相談するためにはる〴〵渡來したほどの事ゆゑ、直に二人は秘密評議を別室に開いた、矢部には吾々にはすこし咄しが有るから暫時失禮するとの挨拶で。

 此方はその機をねらツて居た。手早くわが鞄から秋子爵の手紙の一通を取り出し、更に注意して鞄をば宿へ預け大阪鎮臺附の歩兵大尉奈良何某の私邸を音づれ、子爵の手紙を出して對面を求めた。

 奈良大尉は丁度晩餐に掛かツた時で、子爵の手紙と見て封押し切ツて直に讀みくだせば、

「軍事探偵矢部道任、女裝の僞名間部荊子、必要有る際には此手紙持參にて拜唔可相乞候條宜敷御面會被下度勿論御家人にも眞正の婦人の如く御心得させ被下度候」。

 大尉は微笑して直に一間に通させた。隙見をした細君、「どなたですえ、美人ですのね」と眞顏で云ふのも且をかしい。

其二十二

奈良大尉年久しく軍隊に衣食して居ても明治の今日に女裝の軍事探偵が有ると知ツたは今始めてゞ、それも秋子爵から云々と矢部を紹介した書面が無ツた事ならば、素より信を置かぬ程である。

 見ればなる程窈窕たる一美人、その楚々たる風采どうしても男子ではない。初對面の口誼も濟めば、さすがに低聲で、

「めづらしい御變身ですなア、噂にもまだ貴下の事を承はりもしませなんだ」。

「はい」と會釋して前後を見まはし、「秘密に申上げたい事がございまして。實は此姿で支那に參ツて居り、只今急いで歸朝したところでございます。大阪に居る時にもし必要な件が生じたなら、奈良大尉といふを尋ねて御咄しゝろと吩附けられてありますので。ですが密話でございますから、どうぞ筆談、重要なる所だけは筆談に願ひたうございます」。

「承知しました」と直ちに卓上の硯函を開いて紙を展べた。

 矢部は言葉と共に筆を働かし、金玉均とか刺客李之平とかいふ所は一々筆で書いて見せ、つまり次ぎに記すだけの事實を密告した。

 此度當地の旅館花屋に居る韓國の間者李逸植から支那の中華黨の一人何某といふ者に急電が掛り金玉均を殺す好機會が有るに有るに就ては些しく手を藉りたい故究竟の刺客を至急派遣してくれと言ひ來ツた事、それにつき非役軍人李之平と言ふのが撰ばれて渡來した事、それを矢部も知ツたゆゑわざと李之平と同船して懇意になり、策を弄して今は充分に欺き居り、同じ旅舘の花屋に投宿して、李逸植とも懇意になツたといふ事、それから暗殺の評議に相違無いが、別室で二人が直ちに密議に取りかゝり始めたゆゑ一先矢部自身だけは其處を外して、重要な件だけを報告に來たといふ事、凡そ是等を巨細述べ立て、更に改めて、「如何なる手段で暗殺の目的を達するかは存じませんが、何でも乘ずべき、好い機會が有るらしく、就ては金氏の御生命が甚だどうも危いと存じますゆゑ、どうか一方また貴下の御手から警察の方へも然るべく御傳へ下さいまして、宜しう手配りある樣御願ひ申します」。

 奈良大尉聞く毎に、感じ、感じて居たが、やがて大きく點頭いて、

「思ひあたる所が有ります、花屋の李逸植から變名をもツて暗號の電報を數日前支那へ發したといふ事はその時既に當地警察部の高等探偵が偵知して、その旨上官に報告し、その方から又僕も傳聞しましたが、今思へば其趣きを打電したのですなア。ところで又愈思ひ當たる事と言ふのは金玉均氏が、もう何でしよ、遠からず一週間ぐらゐの内に當地へ來ると言ふのですからなア」。

「それでは夫を附け狙ふので、なるほど」。と言ひさして些し考へ、「痴情の一念から私が金氏に危害をでも加へかねまい樣子に是まで見せかけて居り、李之平等も然うかと信じて居る有り樣で、事に因ツたら私をして兇行を行はせやうとするかも知れません。もとより容易には心腹を打ち明けは爲ますまいが」。

「容易ぢやありますまいな。婦人と思ツて居るだけ猶更の事」。

「そこまで探り至りたいのですが」。

「だが、その必要は有りますまい。最早その上は此方で警戒を嚴にさへすればそれで可いのです。何しろ此度の御報告は極めて貴重な御報告ですから僕から早速その向へも知らせます。御安心なさい。だが是から貴下は何方へ御出でに」。

「大磯へ參ツて金先生及び秋子爵に逢ふつもりですが、御願ひ申したい事が玆に一ケ條ございます。彼等刺客の心腹を奧の奧まで探るといふ事は御忠告にしたがツて見合はせますが、其かはり明日一日間は猶彼等と一所に居りますつもり、勿論このとほり女裝いたして居りますが、萬一どうかして當地の警察官に怪しまれでもしましたなら、其時は貴下の方から御苦勞ながらひそかに宜しく事情を述べて御辯明下さる樣………」

「あ、御易い事です。一両日の内ならまだ甚しく怪しまれて引致などされる事は有りますまい。どうです、しかし、御歸朝の事を秋子爵又は金玉均氏へ通知せんでも可いですか。敵と同室ゆゑ花屋からは打電されますまい、僕からでも一寸通知して置きましよか」。

「然樣、大きに。有りがたい御注意でした。さう願へれば眞にどうも。暗號で無くとも宜しうございますから」。

「承知しました」と談は他の方向にかはツた。

其二十三

矢部が擦り拔けて奈良大尉の所へ行ツたとは夢にも思はぬ李逸植と李之平とは密々に議を凝らして居る。

「さういふ事に聞いたので」と李逸植が語り續ける、「願ふても無い好機會、堺の浦で玉均が舟遊びをするといふのは面白い、究竟な者を乘り込ませてその舟を顛覆させ、溺死させる事にしたら、事あるひは成るであらうと思ふ。就ては日本政府の警戒實に嚴しく、吾々の輩は迚も近づく事ができず、よし近づき得たにしろ、手を下し得る事は思ひも寄らん、さりとて此好機會を逸するのも心外千萬なり、と思ふので變はツた新らしい人の御たすけを必要とする事にもなり、過日の如く打電いたしたです。尊公ならば心丈夫で觀て居られますが、しかし今御提出の御意見、かの金玉均に死ぬほどの怨恨を含むといふ美人、その者を利用するといふのも一策ですな」。

 李之平すこぶる得意げに、「克ち氣で寧ろはしたない婦人と見た眼は違ふまいと思ひます。そこらは大いに利用すべき所で、而も金玉均に對して同人が懷く怨恨といふは世に最も怖るべき戀からで、その戀の力ならば如何なる事を爲るか知れませんてな」。

「そこで利用の方法に就て嘸かし最早高案が」

「卑見二三は御座います。まづ其一は斯うですな其戀の恨に同情を要し、婦人を辱めて更に憐れむ心は毛頭も金玉均には無いとさも憎さげに、言はゞ煽動するのですな、さうして煽動してみづから進んで殺さうとの决心にならせる事、是が一つ。其二は斯うです、金玉均といふ男は朝鮮から日本へ間者に來て居るので極はめて心のねぢけた難物で、それで日本のためにはその樣な惡徒を殺して了ふ方が可い、巾幗の身を以て國害を除けば如何にも立派であるといふ樣に煽動する事、是が一つ。其三は前とは全く變はツた策で、劇毒を加へた菓子を製し、然るべく怪しまれぬやう彼の美人をして金玉均の所まで持たして行かしめ、その手に因ツてどうか旨く食はせるといふ事、是が一つ。先此邊ですな」。

 逸植深く感歎して、「妙、その最後の毒殺は實に奇ですな。その餘の策はすこしく危險で………」

「ですな、賤生もさう思ひます。殺すとなツても纎弱な腕で行ふ事ゆゑ必ずしも成功するとも限りませんからな。毒ならば婦人の手を經て大抵大丈夫」。

 逸植笑みかたむけたが、又眉を顰めて、「一先彼の美人をもて其菓子を持たせて大磯へ遣り、試みさせ、もし過ツたとしたところで、やがて玉均が此堺の浦へ來る時、更に第二の暴療治を行ふ、。と云ふので餘地も多く有り、綽々として寬なる所も有るから可いやうなものゝ、扨この菓子を屆けさせる口實ですな、又それを何うにでもして玉均に食はせる口實ですな」。

「さ、その無いのが弱るです」。

「それは是は些、な」と手は額に加はり始める。

「吾々からの進物と言へば勿論玉均が食する道理も無し、さればとてその美人に吾々の名を包んで差し出せと吩附ければ美人その人にも早怪しまれて了ふし」と逸植刻むやうに一人言のやうに呟いて、「うム斯うしたら可いかなツ、毒が有ると知らせて是で殺して遣れと智慧をくれるか」。

 之平兎角の返事も無い。

 逸植猶一人で呟く。「それには煽動せんければならず、煽動するには日本語の達人を………」

「有りますか」。それを重大の條件と思ふだけ、大いに氣にするとの顏つきで之平は逸植を凝視すれば、

「そりや居ます、機敏な男で閔焜といふのが。すこし思ふ所が有り、且又鹽酸加里などの事を取り調べるつもりで、難波のある燐寸製造所の職工になツて居ます。勿論日本人のとほり日本服を常に着て居る、是また我々と志を同じうするので………」

「日本語をも流暢に?」

「ほとんど日本人のとほりです」。

「そりや好都合ではありませんか。その人をしてあの美人がどれほど深く思ひつめて居るかを篤と探らせ………」

「さうですな。その上にて煽動するとも、又他に策をかまへるとも。成るべくは毒と明かさずに食させる方が望ましいですからなア」。

 之平より逸植の方が稍考へは細かくある。さりながら知らぬが佛。他を殺さうと謀ツて居る二人の頭上に怖るべき死命がいつか近づいて居る、その死命の統御者は馬鹿と見られた美人の矢部であるとも。

其二十四

奈良大尉の許をその夜矢部が辭し去ツたのは、八時頃で、人力車に乘らず、まだ宵の賑やかな市中をぶら〳〵と歩いて宿へ歸る道すがら何を買ツたかいつしか小包みをさへ携へて來た。

 旅宿花屋へ上がるや否や、「皆さんは?」と聞けば、「御つれさまですか、あの朝鮮と支那の方?」と反問して、直に、「御咄し中で、此方から可いといふ迄はどなたをも御通し申してくれるなと仰やいました」と女中が答へる。

 矢部は別に怪しみもせぬ樣子で、「あ、さうでしよ。ですが、荷物置いた先刻の御部屋部へだけは通ツても宜しいのでしよ」。

「えゝ、もうそれは御自由で」。

 會釋して、もと通された座敷へ通ツた。矢部の鞄が一個、李之平のが二個、李逸植のが三個、もとのとほりに在ツて人は居ぬ。

 此時兩李は密議に耽ツて別室に籠もり切ツて居たのである。

 四邊に眼を配る矢部の相好むしろ恐ろしく、する〳〵ツと差し寄ツたのは李之平の鞄で、蝦蟇口から取り出したのは合ひ鍵――手早く葢を跳ね退けて、又手早く中を掻きまはし、大事らしく包んである風呂敷づゝみを拔き取ツて、その跡をもとの通りにつくろひ、更に横の方を搜ツて一斤茶筒ぐらゐな鑵詰をも取り出して、わが持ち歸つた小包みを開けばそれも同じやうな鑵詰、どういふ事か双方を取り換へ、また手早く錠をおろすや否や、座敷の一隅へ飛び退ツてゆツくりと其拔き出したものを小包みにする途端、廊下に人の氣色がするそれと見て取ツた矢部、ぐツと呼吸をつよく呑んで、隔ての障子の開く頃はゝやその呑んだ呼吸を大かたゆるく漏らして了ツて、それからは呼吸も最う忙しくない。

「へゝツ御退屈さまで」と顏差し出したのは宿帳を附けに來た男で、「へゝ、御面倒さまでも御名前を……御つれ樣のは最う伺ひまして御座います」。「あ、さうですか、それぢや口で言ひますから貴郎其所で書いて下さいな。東京神田三河町十六番地間部荊子」。

 旅行の目的などは素より口から出まかせで、やがて男が書き了ツた時分には自分も小包みを絆げをはツて、

「あの番頭さん、ちよいと妾また用が有ツて出掛けますが、ぢき歸ツてまゐりますよ。だが、此所にある妾の鞄は先刻御預け申したのと一所に此家の御帳塲であづかツて置いて下さいな。え、なに、人力車は要りません、近いところへ行くので、そして又路は知ツてますから」。

 委細を番頭に心得させた儘飄然と立ち出でた。ゆる〳〵と歩いたのが一二丁やがて辻車に飛び乘ツて、値段かまはずの一散ばしり、何ぞ料らん過刻一旦辭し去ツた奈良大尉の邸の近所まで走らせ、薄暗い辻で下り立ち、車夫の立ち去るのをとツくりと見定めて、やがて奈良大尉の門を敲いた。

下女が取り次ぎに出て來て勿怪な顏、それながら是々と大尉に知らせると、是また意外の心地である。が、直に離れた一間へ通し、すぐに出て對面する。

「急に當地を去る决心になりましたから參上いたしました。それも斯ういふ物を得ましたから」。如何にも落ち着き拂ツて其小包みを披いて見せる。

 取り上げて見て「やツ」とばかり、笑みくづれるほどの相好で、「大變なもンですな、こりや支那人の電信暗號表、今使用したるのでしよな」。

「今現に使用して居るどころではありません…」「しかし何處から?」

 にツと笑ツて、「偸み出しました、李之平の鞄から」。

「君がツ?」と稍呆れ顏。

「船の中から狙ひに狙ひ來りましたので。刺客一條の事は最早安心として、行きがけの駄賃に狗めの肝を一つ冷やして遣りたうございましてね。その下にまだ面白いものがございます事よ。それ、それ、それです、その人名簿は中華黨やら朝鮮の頑固黨やらと同臭味で氣脈を通じて、それで日本にもぐツて居る其ものどもの名を書いたので、之平が參考のため持ツて參ツたのでございます」。

 大尉感に堪へた。

其二十五

大尉心から歎賞措かず、「大變とも便利とも言ふに言はれん物がよく手に、なア一は支那人の電信暗號表、而も中華黨などが用ゐる奴、一は日本へ來て居る支那人や韓の狗の名簿、而も現在の。妙、々、々。しかし、どうして是を手に」。

「逸植と之平とが例の如く別室で密議最中その鞄を合ひ鍵で――合ひ鍵の無かツたゝめ船の中では殘念ながら手を下す譯には行きませんでした。私を婦人と侮ツて、李之平が船の中で何心無く是等を披いて見たのをちらりと私も認めましたもンで」。

「恐ろしい、凄いほど快い、それは。して又合ひ鍵は?」

「さき程御宅から宿へ歸る時鞄屋で買ひました支那鞄の大きさから番號から最初よく記憶して置きましたので」。

 大尉は呆れて失笑すまでに爲る。

「驚き入りました實に。えらい、素早いことですなア」。

「自分ながら巾着切り……」

「くすツ、結搆な巾着切り、國家のため敬愛すべき巾着切り」。

「ぶツ、敬愛すべき巾着切りとは隨分」。

 大尉にはかに眞面目になツた。

「人名簿は充分此儘當分役に立ちますが、暗號表は盜まれたと心づけば、すぐ本國へ打電して變へて了ひますから、惜しいですな。いづれ盜まれたとは今夜にも氣が注く、ところで盜難に遭ツたと其筋へ……さア訴へたところが詰まらんな……訴へれば自分を日本政府へ知られると思ふのが訴へまいな、それとも書類とか名を附けて、どうでしよ」。

「大丈夫訴へません。他の金品に目をくれず、そんな物ばかり取りわけて盜んだのでも賊の手心は知れる、とても訴へたとて出るものでなし、それで訴へれば御説のとほり藪蛇ですもの。只此儘歸らなければ差しあたり私を疑ふのが順序ですが、しかし錠はちやんとして居る。よもや合ひ鍵で開けたとも眞逆」。

「眞逆、々々。さうですな。面白いわい、こりや嘸おどろくだろな。さうすると君は却ツて逃げん方が」。

「さう行きませんのです」と小聲ではあるが、きツぱりといふ。いよ〳〵聲を潜めて「盜まれたと氣が付く迄あの二人が無難ならばまだ可いので」。

「無難とは?」

「死にませんければ、さツ」。重さ千鈞といふ一語である。

「金氏を狙ひ、且は日本帝國の社稷に害を及ぼさうと云ふ、彼等憎むべき蛆蟲どもですから、序の事に療治の支度をして置きました。事實だけ飾りなく御咄しゝます。之平といふ男は無上に鮭の鑵づめが好きと見えましてね、船中で食事の時他の食物が有ツても鮭だけは缺かした事が决して無く、五六個の同じ鑵詰を鞄の中へ仕入れてさへ來ましたのです」。

 妙なところへ咄しが飛んだものと言ふやうな、大尉些しく間のぬけた顏。

「夜は大抵十一時頃でなくては寐ませんでしたが、妙に必らずその寐る前に例の鮭で火酒を飮むのです今晩とても亦それに違ひ有りません。まづ違ツたら違ツたで可しとして、その手を付けかけた儘鞄の中へ吝嗇くさく仕舞ツてある鑵詰と擦りかへて、實は同じ樣な鑵詰を入れて置いて、その舊のは此とほり持ツて參りました」と小包の中から取り出して見せ、「手品を一つ爲てみました」、

 大尉猶理解しかねた樣子である。

「擦りかへてどう爲さツたので」。

「御わかりに爲りませんか」と微しく笑ツて、「擦りかへた方の中にしたゝか毒を盛りましたので。さ、何、御驚きになる程でも――多分今頃か最すこし遲くか、一人で食べるか二人で食べるか知りませんが、大抵は行られましよ、毒も毒、亜砒酸ですから」。

 大尉はほとんど歎息して、「そりや何せ一大事が起りますなア。ですが、毒を加へるとしても、既に鞄の中にあツたのが口を開けてあツたのでしよ、さうすれば別のと擦りかへるにも及ばず、前の口を開けてあツたのゝ中へ直と毒を入れても可いのでしよ」。やゝ不審顏である。

「それで宜しいのですけれど咄嗟の間にしなければ爲りません――思ふやうに巧く行きませんや。別物をあらかじめ用意してゆツくりと仕込むに越した事は御座いませんから。况や口を開けてあツた、その口の開け方など甚しく特殊の所が無い以上は前のと違ツたと心附かれる氣づかひは有りません。何大丈夫、仕損じたところがそれだけです。只仕損ずれば私の身に疑ひのかゝるのは當前で、先方が活きてゞも居ますれば、私の顏を見おぼえて居て、逢ひでもすれば容赦しますまひといふ夫だけのところです。兎に角事實だけを御咄いたして置いて、今晩是から急いで直に滊車で上る事にいたします。其筋の方へは宜しく御手心願ひ上げます」。

 急ぎながらも咄しは落ち着く。要點をのみつまんで述べて暇を告げ、門出るや否や辻車、飛ぶが如くに停車場へと走らせた。

其二十六

身輕くその夜矢部が大阪を迯げ出して大磯へ翌日到着し、秋子爵と金玉均と二人揃ツて居る面前で、是までの色々な冐險の物がたりした時の喜ばれ方、感じて聽かれた具合ひ、形容し得らるゝ者でもない。支那で李朴が洩らしてくれた軍機の秘密は怖ろしいやうでも有り、驚くべき程でもあるが、それよりも玉均をして顏色までも一時變はらせる程にしたのは、李之平が李逸植の打電によツて刺客として渡來したとの事であツた。

 そこで又矢部が奇智を働かしてそれらに近づき、秘密の秘密を探ツた上、電信暗號その他を盜んだ上、飽どくも二人の生命をまで風前の燈火として迯げ戻ツたといふ、鼠のやうな素早さには二人とも舌を捲いた。

 褒稱と感謝と驚愕と、此三つを其日一日子爵も玉均も繰りかへして居るのみで、扨あくる日の大阪新聞の到着を待ツて、花屋に珍事でも起ツたか何うかを呑氣に知らうとしては居られぬので、やがて子爵の知人たる大阪のある筋へ向かツて左の意味の暗號電信を發した。

「中の島の花屋にもし珍事あらばその種類の如何を問はず至急電報せよ」。

此掛けた先のある筋といふのも心許せる相手なので。平常ならば奇怪きはまる此やうな電報を奇怪とも思はず出したのである。すると二時間ほど過ぎてたちまち返電、開封すれば兎に角暗號の長文讀まぬ前から胸轟く。子爵は眼鏡取り出すやら、矢部は暗號表を開くやら。やうやくにして譯し出だせば。果然、果然、一珍事! その電文、

「昨夜十二時花屋止宿の韓人李逸植の室に於て新來の清國人李之平中毒にて即死………」

「やられたか、とう〳〵」と子爵が思はず聲迸らせると、一種物すごい笑顏が玉均と矢部との顏にをよぼす。更に譯を進めて行けば、

「鑵詰中に亜砒酸有り、但し毒の出所未詳。逸植は治療し得る見込、言語不明にて一切更に分明ならず。旅宿の證言によりて其夜限り同伴の日本婦人の姿見えざるため其者に嫌疑掛れり。委細郵便」

 言ふに言はれぬ一種の心もちで稍しばらくは一同無言である。感懷の殊更に深いのは矢部で、もとより覺悟の上わが手を下して國家のため毒殺したとは思ふものゝ、扨昨日まで翌日をも知らず達者でいきほひよくして居た者が一刹那の間に不歸の客と爲ツたると思へば、その現身の風采が目前に髣髴して、何も氣味わるいといふ程でもないが、又氣味好いといふ程でもない。「いかんなア、是がはじめての殺人犯の故だなア、膽の練り方が噫まだ足らんなア」とはひとり胸で繰る所感である。

「うまく行きましたなア、金先生。いかにも素ばやい手際、乃公や敬服の外有りません」。いかにも肺腑から出る體で子爵が」。

 玉均苦笑ひして、意氣地無く殺されたもンですなア。して見ると逸植までが食べは食べたので」。

「さよ、序に殺られゝば可かツたのに。吾々が矢部君には此度大いに助けられたのは今改めて言ふ迄も無いですがな、先生、さし迫ツて矢部君を何處へか迯がしましよかな、それとも此邊へ隱して置きましよかな」。

「されば」と玉均首傾けた。

「わたくしが逮捕されるだろとの御心配ですか」と矢部が。

「うム、事が事だから大丈夫だろとは思ふが――でしよ、先生」。

「まづ、さうです矢部、しかし君の决心は?」

「大丈夫でしよ。よしや照驗が付きましたにしろ、そこは夫その、ね、あなた」と微笑すれば、

 子爵も笑ツてうなづいた。

 その夜は久しぶりで寬ぎたいからとて人の出入を禁じてもらツて奧まツた一間の中、酒肴いろ〳〵備へさせて、姫御前すがたが高胡坐、悠然として前途の程を考へながら且飮み且食ふ心地よさ、數月の窮屈只この一夜に去れたやうで特に第一着手の冐險が幸にして失敗せず、玉均にも子爵にも敬服され、感謝され、大いに面目を施した、その愉快また格別である。さりながら又憶ひ出す、憐れむべき彼李之平、敵としては憎くもあれ、清國の志士として是また國家のために死んだと思へば、一片同情の涙といふもの、又濺がずには居られぬとも思ふ。大阪の方に向いて心ばかりの酒を手向けて、涙一滴何となく古歌を口ずさむ。

   戡とりて月みるたびにおもふかな
       いつか屍のうへに照るやと

其二十七

李逸植は藥毒不充分のために回復したが、李之平は全で日本へ死にゝ來た樣なもので、空しく不歸の客となツたのみである。これがために今更のやうに又金玉均の身の警戒を嚴にするやうに爲ツて、容易な人には面接せず、それも矢部の庇蔭であると、感謝まことに斜ならず、而も自分がその矢部を最初有爲の人物と認めた眼力も亦普通ではあるまいと窃かに誇る計りである。

 しかしその以來矢部の姿は何所にも見えぬ。彼は役の行者が雲を呼び雨を役して天地を自在に飛び行く、それと同じやうに更に分からぬ。よしや國事のためとは言へ、李之平を同人が毒殺したらしい嫌疑も有り、ある筋に於てもひとかに踪跡を偵察したが、まるで烟のやうである。

 花と紅葉と二度三度交代して明治もいつか廿六年となツて、目にこそ明きらかには見えね、戰爭を含む妖雲は次第に東洋の天地を掩ひ掩ツて來る。金玉均の身の在處も此頃は更に定まらず、今日東京かと思へば、翌日は横濱、また其次ぎの日は大磯といふ樣な具合ひで、その度毎一々尾行する高等探偵の手數是また一とほりで無い。

 その十二月の初旬の頃、夜七時過ぎ、二輛の腕車を砂地の中へ輾らせて酒匂の松濤園へ突如として入り來たツた夫婦づれと見える客が有ツた。風體からして賤しからぬので、兎に角一旦二階の廣間へとほして置いて、御逗留ですかと聞けば、どうぞ靜な所をと言ふ。丁度あまた有る貸し別莊の中で海に一番近くて母家とは懸隔れた、第何號とかいふ手頃なのが空いて居たので、すぐさま其處へ通しやがて宿帳に名を署けさせると、男は相も變はらぬ岩田周作、女は同人妾吉田きんとして出した。

 言ふまでもなく此吉田きん即ち彼の矢部道任なのである。飄然と何處から舞ひ下がツて來たものか、また何處で金玉均と打ち合はしたものか、何しろ忽然また大磯附近へあらはれたのである。

 吩附けたゞけの酒肴を運ばせた後、用が有れば呼ぶからとて女中を遠ざけながら、更に矢部は玉均の命を受けて、

「しかし姐さん、但もし洪鐘宇と名唱る朝鮮人が旦那を尋ねて御出でゞしたら一寸いつでも御取り次ぎを願ひますよ」。

「かしこまりました。朝鮮の方でございますね」。

「いえね、どの朝鮮の方でもと言ふのぢやありませんの。他の朝鮮の方が來るかも知れませんが、旦那が御目に掛かると仰やるのは差しあたりその洪鐘宇といふ人だけなのですから」。

 名を覺えかねるといふ顏つきで、女中はもじ〳〵。

「おほツ、洪鐘宇といふのよ。斯う書くの」と端箋に記して與へて、「そのとほりの名刺を出しましたなら」。

「ほゝ、かしこまりました。つひ伺ひつけません御名前なもンで、おほツ、解りましてござます」。

 應答の間金玉均は手酌でひとり切りとあふりつけて、下地すでに有ツたらしい顏が夜目にも色榮える迄酡く、時々は熱い呼吸を吹いて、よほど酩酊の樣子である。

「大分御醉ひの樣子ですが、込み入ツた御咄しは明日にいたしましやうか」。

 肩ゆるがせて、首を掉ツて、「いや〳〵何うして。此頃は最早一刻千金、危急の時期だもの。君に面會するのを待ツて居たので、突如として面會せんといふ君の飛報に雀躍した。醉ツても何でも國家のためには氣は慥だ」と平常とちがツて、全て朝鮮語ですら〳〵と述べて、「さしつかへ有るまい、解るだろ、朝鮮語で、何しろ先刻停車塲で逢ツて、君が韓語に熟したには一驚を喫したよ、もう是からは何かの相談にも好都合だ。さ、一杯、うム、君は麥酒だツけな」と鎔けさうな笑顏である。

 會釋しながら矢部も笑ツて、是また朝鮮語、「わかります。ざツと三年勉強したのですから、さすがの不器用も。まづ練習のつもりで是からは不完全ながら一切朝鮮語で」。

「大いに可し。他の日本人に秘密をも悟られなくて可いからな」。

其二十八

「そこで嘸かし是まで君が歴遊して居た間に、書状の通信以外の注意すべき事が色々有ツたろうな。出さきから君が島田絲子女史宛にして出した書信は一々接手したが、唯露國から出したのにゝ一回受け取らなかツたのが有ツた。一々あのとほり書信に番號の附けてあるから直に分かる、何でも四號か五號か一回拔けたよ、窃まれたのか知らん、もちろん他人が見たところで解りはしないが」と玉均久しぶりの珍しさに立てつゞけに述べ立てる。

「いや一回ぐらゐでしたらまだ結搆なので、西伯利地方など迚も普通の政府の統治を受けて居るとは思はれん位でございます。掏摸や泥坊は珍らしく無い咄しで、郵便の紛失ぐらゐ朝飯前で、それと知りましたから私も露國から出した書信には萬一を慮ツて大秘密の事をば記載せんやうにいたしました」と先それ相應の挨拶をして矢部は膝を押し進めた。

「何よりも先に御咄いたしたいのはあの洪鐘宇といふ男の事でございます。先生はあの男を如何なる人物と思し召します」。

「いかなるとは」。

「いや、如何なる性質の男かと――乃至いかなる所存を抱いて居るかと」。

「さうさなア」ち玉均すこしく考へるらしい樣子である。別に深く考へもせんけれど…………」

「深く御考へにもならん?」と稍失望の顏つきで、「唯御信用なさツての故ですか」。

「甚だしく信用するといふでは無いが」と語氣きはめて曖昧で。「それに就ては君何か思ふ處が有るのか」。玉均に於ては些しく矢部の樣子の尋常ならぬに不審を抱いた氣味である。

「大いに思ふ處が有りますので。ほのかに噂で承はりましたが、先生は大分あの男を御信用になツて入らせられるさうで、一切の秘密をも大抵御打ち明けになツたとか」。

「そんな事を何處で聞いた」。

「朝鮮で。而も頑固派のものから」。

「そりや推測だ」。

「いや左樣でございません。たしかに私が聞いたので」。

「だからそれが推測だ。君はたしかに聞いたのだろさ、さう言ツた者が推測して君に言ツたのだ。考へても見るさ、洪は無二の日本黨ぢやないか」。

「と思しめしますか」。斯う言ツた時の矢部の聲はむしろ稍ふるへて居る。うらめしげに金を見つめて、

「先生そりや、失禮ですが千慮の一失、御心得ちがひと言ふより外ございませんなア。嗚呼いかさま〳〵噂のとほり、畜生め、よくも先生を籠絡し了ツたなア」と聞こえよがしの獨語で言ツて、更に又きつとして、

「先生、御ためを思ふがために申し上げるのです、どうぞ御立腹無く御聞き取りを、兎も角も願ひます」。

 玉均は無言で居る。

「先生、鐘宇も刺客ですぞ、えツ先生、御一身を附けねらふ恐ろしい奴ですぞ」。

「鐘宇が?」

 玉均その言葉に信を措かぬだけ更に驚いた體も無く冷やかに聽いて居る、反問も殆ど儀式的で。

「ですから頑固黨の一味、又李逸植の同志の友、化けに化けぬいて居るのです。逸植と親友であるといふ丈でもその人物は大抵知れて居りましやうが、逸植との關係をば御存じでございましやう」。

「そりや知ツてる。だが、それだけは、折角だが、君の見込みちがひだ。鐘宇に限ツて决してそんな人物で無し、一意大韓國の獨立を企望し、終に亡命してこの國に來て未來の畫策に肝膽を碎いて居るのだもの。そりや此僕がたしかに〳〵認めたのだ」と飽くまで信じぬいて居る。

其二十九

金玉均が洪鐘宇を信じて居たのは、評すれば痴といふべき程で、更に換言すれば迷の闇黒裡に陷ツたといふ程である、鐘宇の快辯、その中に而も温さながら玉の如しといふ情を含んで居る、一種の魔藥とも言ふべき利口をしたゝかに浴せかけられてはよしや、最初は疑ツてもやがて早晩鎔かされてしまふのも強ちに愚とのみは言ひ得られぬ。矢部も後につく〴〵語ツた、鐘宇ほど人を瞞す名人は滅多に世間にあるまいと。

 飽くまでも玉均は鐘宇を信じて居る語氣なので、矢部は憤慨一とほりでない。どの方面からどう證據を示して可いかそれさへも迷ふほどである。

「その道を以てされゝばあざむかれる、是またいたし方はありません。が、先生より御考へ下さいまし、鐘宇を私が先生に讒言して遠ざからせる樣にして私に何の利益が有りましやう。是までに親も及ばんほどの御庇保を先生からいたゞき、それがため國家のため、人類博愛の主義のため、目的どほり志士と爲ツて奔走する事を得る私の今日の境界、それに立ち至ツたのは天地間唯一の先生有ツた故と深く感銘して、もとより先生のためには蜉蝣の身を吝まぬ决心、况んや玆に韓日清三國に亘る紛擾が日一日と内部に於てその度を進め來る今日、先生の御一身の實に千金にも換へられんといふ處で、つまりは失禮ながら先生を思ひ奉る一片の至情からして御氣に入られん事までも申し上げるのです。鐘宇が眤れ易く、したしみ易いといふのがつまり鐘宇の鐘宇たるところで……」

 玉均醉眼朦朧として、微笑しながら遮ツた。「いや然うでない。反對だ。眤れ易くも無い、いやむしろ始めの内はしたしみ難いほどで」。

「なるほど、然らばそれは一般の間者の特色であるとしましたならば?」

「あはツ、さう理屈づめにしては困る。そりや君が僕に對する友情は明らかに知ツて居る。怪しい奴だと鐘宇を疑ツて兎も角僕に忠告を試るのは感謝する。が、僕は僕の信じた處を以て鐘宇をば信用し、心許せる死友として君にも紹介しやうと思ふのさ。何ぼ僕でも一概にさう他人を信じはせん、充分に試みた上で無ければ。况んや風聲鶴唳にも心すべき身と知ツて居るもの」。

 情け無さゝうに矢部は俯いて居た。やゝ暫時して見上げた眼にはさも情が激したらしく涙さへ宿ツて居る。それならず語氣は鋭い

「どうしても然う御信用ならば、更に、如何です、彼洪鐘宇といふ奴は支那の○○○の輩と如何やうの連絡を通じて居る男か、その證據を御目にかけましやう」。

 慌てゝ鞄に手をかけるを、「いや」と制して、

「君を欺くために誰かゞ拵へて君の手に入るやうにした證據であるかも知れはせん」。

「いや見おぼえも有りましやう、閔○○と李○○との眞正の筆蹟の書状です」

「洪鐘宇と往復した書面か」。

「さようです」。

「いつ頃」。

「去年中です」と又更に鞄に手をかけるを又制めて、

「そんなら見ずとも解ツて居る」と思ひきや平氣で居る。

「解ツて居る、解ツて居る。君が一概にさう思ふのは無理も無い。が、どうだ此頃それら、もしくは其黨派の連中と鐘宇が文通でもして居るか」。

「そりや何うか存じません」。

「なぜ探らないのか。まア可いさ、探らんでも。僕も既に知ツて居る、そのはじめ鐘宇は全く君の言ふとほりそれらの奴の手先となツて日本へも渡來したので、それから後つく〴〵宇内の形勢を見て飜然と説を變じ、つまり僕の味方になツたのだとその譯今咄す、とツくり聞きたまへ」。

其三十

大いに呂律も回らなくなりながら、玉均は宛も興に乘ずる體で、日本酒と麥酒と混ツたのを又一盞ぐツと傾けて、

「まツたく鐘宇が渡來した當座は純粹なる頑固黨で、機よくば壯士でも傭ツて僕を要撃するぐらゐな考がへを持ツて居たのだ。彼は日本を韓國のため更に恃むに足らんと信じて居たのだ。それと言ひながら是まで韓國の事に就ては○○でも○○でも常に支那から割を食ツて居たらう。一二の人士を除くの外、日本と結托して支那に當たらうとの考へを起さんのも無理でないさ。そこで鐘宇もその一人、日本をは見くびり切ツて居て、その自分が夫程に見くびり切ツて居る日本と金玉均や朴泳孝は結托する氣なのは情無い、いよ〳〵然うならば大朝鮮國のための國賊であるから、仕宜に因ツては殺つけれもくれやう、と先此决心で渡來したのだ」。

 些しく先を越された氣味で、矢部は只だまツて居る。

「ところが日本へ來てがらりと變はツた。まるでその説を變じた。日本を頼む氣になツた。どうして然うなツたと言ふに、國で聞いたよりも思ひの外、日本の萬般が整頓して居て、是ならば充分に頼める、と斯う思ツたからださうだ。はじめに鐘宇が僕を惡んだのも一個人の金玉均として惡んだので無い、韓國の社稷のためにとて惡んだのである。その一旦迷夢を覺ますべき時となれば、飜燃として猛省し、過ちを改むるに憚らず――勇者ぢやないか。それで悔悟してから身を僕の所に投げ出し、いはゆる胴骨そこに据ゑて、それ迄の自己の意見履歴を包臟する所無く、いろ〳〵の秘密をさへ打ち明かし、もし夫でも疑ふなら如何やうにされても苦しくないとまで言ふのだ。曰く支那有るを知らず、只日本有るを知る、日本有るを知らず、只金先生有るを知る、金先生有るを知らず、只大朝鮮國有るを知ると、まづ是だ。物も疑ふには程度が有る。その程度を飛び越して疑へば、いよ〳〵疑ふほど際限が無い。そうぢやないか」。

「さやうでは有りますが……」

「まだ生返事かな。それには君、まだ鐘宇を見ないからだ。實際の人物をとくと見れば、又想像と大にちがふ所の有るのは言ふ迄も無いからな。それともまだ君の方に僕の所説を反駁して、僕をして然うなら然うと理解せしむるだけの論據が有るのか」。

「それは有りません」。矢部は力無さゝうに言ふ、それも暫らく考へた上の事。

「噂と想像から成り立つ揣摩の説だろ。そんな薄弱な事ではいけん。あたら有爲の人物を」。

 矢部はしんみりとした。

「只今私は玆に反駁の論據を有ちません。今仰せのところも亦一應の御道理と考へますから、已むを得ず先默して或ひは然うかと承ツて置きましやう」。

「烹え了れんな」と笑ひ出す。

「火力まだ不充分ゆゑにです」。

 矢部は眞面目、しかし玉均ます〳〵笑ふ。

「この火力で不充分なら――あはゝ、此上の火力は何、何かなア。可し、この上の火力は洪だ、鐘宇だ、洪鐘宇だ、鐘宇を篤と君に紹介して、君の隨意の觀察から實地に同人の眞價を知らしめ、その火力で烹え了らせる、さうだそれが一の手だ」。

 恰も可し(?)果然洪鐘宇が來たとの女中の取り次ぎ、すぐに通せと玉均は勇む、さて矢部は苦い顏。

 しづ〳〵と入り來た鐘宇を瞥一瞥する刹那の矢部の眼は抑も如何なる色彩を含んで居たものか、形容し得るものなら形容したいほどである。刺しとほすばかりの視線を注ぐ。

 金洪二人とも先一とほりの挨拶したが、その具合ひ鐘宇が玉均に對するのは同志といふよりは寧ろ主從の樣である。

「鐘宇」と玉均が呼びかけて、「此美人即ち例のさきほど君に咄した彼女。非凡の志士だ。どうぞな、是から相扶けて親交を」。

 鐘宇慇懃に禮をした。

其三十一

矢部つく〴〵と洪鐘宇を視たが、如何にも温和で、その中に凛然とした處が有る、たとへば夕日に映ずる雪のやうで、その微紅を帶びた美くしさは何とも言へぬが、偖又何處となく冷やかなる處も見える。

 と見えるのが先入主となツての僻眼か。更に最負目を以て見たらば如何、温にして嚴、その一語は立派な男子の好風采を言ひ盡くして居るところで、或ひは眞實そのとほりの人物かと矢部は腹の中で思ふ。

 玉均の顏は今は熟柿その儘である。身もすこぶるぐた〳〵に爲ツたらしいのを、さすがに生醉ひ本性たがはず、矢部が案外鐘宇を疎むのが氣になるのでそれで辛くも身を支撑ツて二人の樣子いかにと見やうとして居る。

 矢部に向かツて鐘宇は莞爾とした。

「くはしくは金大人からも承りました、女裝して樣々な御苦心なされた事を。當代にめづらしい御擧動、金大人のため、更に之を大きく言へば大日本國のため大朝鮮國のため、失敬ながら此上も無い仁義の御所業、敬服のいたりです。拙者などは御承知のとほり亡命の身となツて、幸に仁無量なる日本大政府の御保護をもツて殘骸に呼吸通はせて居りますが、さりとて 皇上及び故國に對する臣民一片の情、感懷は實に千萬無量です」。

 ふム乙に殺し文句を列べるわいと矢部その腹では笑ひながら、「いえ、御褒めにあづかツては恐れ入ります。何事も國家のため、只知らぬ他國へ亡命の客と爲ツて御出での御心中は御いたはしいと思ひます」と當り障り無くのみ言ふ。

「金大人から承りましたが、此度は大分各地を御巡りになツたさうで――露國は何の邊まで」。

 が、もとより矢部はその要點に對しては更に滿足な答へを與へる心も無い。

「何、唯飛び歩いたばかりです。金先生にも濟まんくらゐ、言はゞ旅費をもらツて漫遊して來たンです。しかし、あなたは李逸植の御親友ですとな」。

 迅雷一撃といふ鹽梅、不意に荒肝ぐツと抉ツてその顏色を見やうとした。

 が、すこしも變ぜぬ。

「はツ、親友でした」。只是だけの答へである。

 始めた、そろ〳〵搜りを入れるなと玉均見て居て頗るをかしい。些しく背負投を食ツた氣味で、矢部のまごつく樣子もいよ〳〵可笑しい。

「鐘宇」と呼びかけて、「君、さツぱり今夜飮まんな。さ、注がう」と玉均は麥酒の瓶を取ツて中腰になツて注がうとした途端、もはや非常に醉ツて居る事とて身體は忽ちふら〳〵として中心を失ひ杯盤の上へがちりと手をついて横さまに倒れさうになツた拍子に、麥酒の瓶は手を辷る。

「や、大變」と身近ゆゑ鐘宇すぐに瓶を取り上げるうちに、玉均また目の覺めた樣に起き復ツたが大いに極りわるさうである。

「あゝ醉ふたと見えるなア。弱くなツたなア酒量が。飮み盡くす天下の酒――といふ意氣が銷磨したかな。いゝや、爲ん。うム、さうだ、注ぐのだツけ。さ、鐘宇、洋盃を出せ」。

「ありがたうございます。手酌で自由に」。

 眼をいからせて、「いゝや、いかん。僕が注いでやる。寸志だぞ鐘宇。君に勸む一杯の酒、良宵すべからくまさに談ずべしだ。な、そツだろ。風月いまだ寢ること能はず、さ、醉ひ來ツて空山に臥せば、さ、天地すなはち衾枕、さ。そツだろ。鐘宇、なア矢部、天涯に淪落して居る一孤客、な、鐘宇、感きはまツた時には流石に大丈夫の覺悟でもさて情無いやな。いつは再び慈愛ある 皇上の御顏に接する事が叶ふか、いつは再び故山の土を踏む事が爲るか、いつは再び回天の偉業が成り上がるかと思ふとなア……」又ぐツとあふりつける。

其三十二

醉ふのは金玉均の一の病ひだと洪鐘宇も矢部も知ツて居る。度はつれに醉つて隨分傍のものを困るらせる事の有るのも亦知ツて居る。但し今夜のやうに稍愚痴に傾いた事を陳べ立てるのは些しく珍らしいのである。

 しかし醉ツて如何なる本心を洩らすか、管はずに言ふだけ言はせて見るも可いとは洪と矢部といふ二人の揃ひも揃ツた、煑ても燒いても食へぬ代物の胸中に期せずして共にもよほした考へである。期せずして又二人はにや〳〵と聞いて居る。

 玉均舌なめずりして眉を顰め、ぶウと熱い呼吸を含んで、「實に感慨に堪へられんなア。同志とは言ひながら朴泳孝は果斷に乏しくてさ、兵を擧げやうとすれば、どうも一致の勢力を得るらしくも無くさ、と言ツて何時まで斯うして居たところが、徒に路傍の殘肉同樣むなしく腐ツて了ふのみだからなア。鐘宇、僕は此程の夜も目が覺めて寢られなくなツた。痴人夢を語る流儀で我ながらをかしいが。皇上を夢に見たてまつツたのだ。忌まはしいでは無いか縗衣を召してさ、蒼ざめた御顏で何處とも知れん處に彳んであらせられた。おどろいて平伏すると、潜然と御涙で、朕はもう冥府へ來た冥府で玉均貴樣を見やうとは思はなかツたが。扨は頼みに思ふ貴樣も終に奸徒の毒刄に罹ツてこの樣な處へ來るやうに爲ツたのか、それ見ろ貴樣の身體をまるで身首はなればなれになツて、よく夫で歩けるのと、何とその時實に夢ながらぞツとしたなア、今之を思ひ出しても」と身ぶるひした。

 耳を掩はぬ計りの體で、鐘宇は極めてうとましげに、「あ、不好、々々、不好な、不吉な夢ですなア」。

 只一人矢部のみは冷やかに鐘宇を視る。

「不快はそれに止まらんのだ。猶いやな夢だ、それからだ」。

「前よりまだ?」

「うム」。

「敢て承りたくありませんなア」。

「まづ聽けよ。その内いつしか 皇上の御姿は見えなく爲ツたと思ふと丁度南門のところだね、九重こと〴〵く荒れはてゝ、蜘蛛の巣が一杯なンだ。それ見た丈でも涙が零れるのを、その巣を張ツて居る蜘蛛の大きさと言ツたら無い、雀ぐらゐいゝや笑ふな、夢だもの、それで蜘蛛が人語を作す。是が今日の獲物ですと言ツて僕に見せたのを何かと思ツてよく見ると獮猴が。この獮猴が蜘蛛より小さい、その顏は僕の妻その儘で、その横腹の皮肉はすツかり剥けて石榴の裂けたやうで、臟腑と肋骨とが露出して居る、それで淋しくきり〳〵と笑ツて僕のところへ這ツて來るのを見ると、當歳の儘別かれて流石に折々は憶ひ出す僕の女の赤兒姿さ。いやその不氣味言はう樣も無い」。

 洪も矢部も竦然として。夢とは言ひながら、忠と愛との二感情が、言はゞ鬱積結晶したやうなものである。一皮を剥けばその裏は涙滿々たるものと思へば、鐘宇はどうか矢部も坐ろに同情を動かされて、稍涙ぐむばかりである。

「しかし鐘宇、もう唾して起つべしだな。日本在留の○○公使の遲鈍いなのが此處で戰爭する日本政府に取ツて非常の好都合だ。就ては君たちだ、是からいよ〳〵大に君たちの力を藉りなければならん。國事を懷ふたびに膓は煑えかへるところでわが腹心の徒たる君たち二人に夢の咄しまでする愉快是また尋常一樣でない、と思ふにつけて無念を呑んで死んだ尹雄烈の徒の事も亦目前に髣髴する樣でなア。嗚呼人の命ほどはかない物は無い、今始めて解ツた事でもないが。僕だとて是とて流寓の儘で或ひは終に死ぬかもしれんと思ふと、つまらんてなア。美人でも相手にしなければ叶はないぢやないか。なア矢部江湖に落魄して酒を載せて行く……贏ち得たり青樓薄倖の名……げえツぷそぢやないかツ」。

 憐れむべし玉均の今夜の物がたりは終に讖を成したので、其處で怖るべき野心を包藏して冷淡を粧ツて聽いて居る鐘宇の胸はそも〳〵どんな具合ひであツたか。

其三十三

夜は更けてはや十二時になツたが、感慨に腦を刺激されてか、玉均更に寢る氣色も無く、寢たい所をば既に通り越して、目は冴えに冴え、氣焔當るべからざる程であるのを只愁然として洪鐘宇は頭を低れて聞いて居る内、扨何に感じたか、たちまち手巾取り出すと思ふ間に横を向いて目を拭ツた。

 それを不思議さうに玉均は見て居たが、不圖また麥酒の瓶を取り上げて、中味の無いのに心付き、いよ〳〵まだ飮むとの勢で、

「無い。矢部も、一本拔いてくれ、ふム麥酒」。

「まだ召し上りますか、もう餘程」。

「馬鹿言へ、水同樣のものを」。

「是非無く拔く。

「おツ、美婦人、注いでくれ」。洋盃さし出す手許も早定まらずゆらついて居る。

 鐘宇は苦々しい顏で始終の樣子をぢツと凝視て、又何を思ツたか噫と歎息の息を洩らすと同時、一入儼然とあらたまツた。

「大人、金大人」。聲は微顫を帶びて居る。

 樣子の異常なので、玉均醉眼ながらも、ぎろりとさせて、「あ、何」。

「鐘宇涙が迸りますツ」。

 唯是だけ言ひ放して、顏を掩ふて男泣きに聲を呑む〳〵泣き出されて、玉均やゝ呆れ顏。

「何、どう、何がどうしたのだ」。

「御わかりに爲りませんか。いよ〳〵鐘宇泣かずには。大人、鐘宇が過日何と言ツて大人を諫めましたか、大人の亂酒の事について」。

「や、又か。またそれを始めるか」。

「始めるかでは御座いますまい。過日も既に……」

「解ツた、わかツた、わかツたよ」と快口に言ひなぐツて、「わかツた、が、今夜だけ」。

「未練がましい。さう仰やるだけ實に九膓寸斷するほどで。御機嫌に逆らふか知りませんが、鐘宇敢て申し上げます、座には矢部君だけ、他人は居ず、むしろ矢部君を證人ともして、さ、大人、あへて苦言を。矢部君、どうぞ貴下もとツくりと御聞き下さい。是には拙者も一方ならぬ心配をして居ますのでな」。更に又改まツて玉均に向かツた。

「大人、言あたらしく言ふ迄もない御身の上でしよ。大朝鮮國の運命を實に双肩に負ふて立たれるのは誰、何方ですか。今何と仰やいました、皇上を夢にも見たてまつり、南門に蜘蛛が巣を張ツた情無い状をも夢みたと仰せられた、抑々その御口で、大人、いやさ金大人、爛醉泥の如くなる迄酒を飮み得られるものか、得られぬものか、過日も鐘宇が言ひましたろ、大人一人のみの御身體では無い、國のための御身體でもあると。此危急存亡なる韓國の社稷のためすべからく充分なる慈愛を要すべき御身體、それをもツて敢て何事、健康を傷るまでの御亂酒、言はうやう無く度を過ぐして――噫、泣きます、鐘宇は泣きます、ひとり金大人の御一身に對してのみでなく、又大朝鮮國のために取ツて。實、實、實に泣きます。嗚呼大人、大人鐘宇をしてどうしても是程迄に泣、泣かせて下さるか」。

 深刻きはまる一言、その後は嗚咽である。どう見ても玉均のため、また國家のため至誠を籠めたとして見えぬ擧動、矢部も流石に心やゝ動いた。

 はてな、妙だわい。不思議だわい。どうも肺腑から出たらしい口上、こりや俺の目が違ふか知らん。又己が支那乃至朝鮮に在ツて探りに探ツて、たしかに鐘宇は許すべからざる間者と認定したのも違ふか知らん。金玉均の亂酒はその知人のすべて苦惱する所、而も思ひ切ツて諫める者も無いところで、思ひきや鐘宇が斯うとは。極言して諫める、その言に道理も有る。して見れば眞の志士か知らん。待てよ、しかし或ひは狸かも。では無いかな。化けて居るンではないかな。不思議、實に不思議だ。何しろ俺の探ツたところでは何うしても間者らしい證據が立ツて居る。まだ〳〵是だけの擧動だけでは俺の所信を打ち壞る所までは行かない。よし、いよ〳〵注意して視るべしだ。千年の古狐は蕃椒ぐらゐで尻尾をば出さぬてよ。

 とばかり、五里霧中にさまよひ出した。

其三十四

至理を以て責める故か、それとも相手が氣に入りの洪鐘宇である故か、金玉均その眞向の攻撃に腹立てた樣子も無い。俯向いて默して聽いて居たが、鐘宇の最後の一言は深くも胸に浸みたと見えて、はツと爲ツて面をあげた。

「鐘宇、又君は、また泣くのか。おい、鐘宇、泣くほどの事かい是が。折角豪飮した宴席に泣くなどゝ――おい、こら何うしたのだ」。

 矢部も默しては居られぬ。

「洪君、そりや御尤も。君が金先生の御身のためを思ひ、また朝鮮國の未來のためを一意に思ふ餘りに先生の亂酒に對し、敢て苦言を呈するといふ事、僕も實に敬服しました。なれども、もし洪君、大丈夫が泣いたとて――泣かずとも事は濟む。さ、さ、さ、つまらん。

 雙手を掉ツて、「いゝや、いや、是が一度や二度でないです。それを金大人は………」と口惜しげに。「さ、それも然うでしよ。が、婦人見たやうに泣いたからとて何も別に…………」

「好んで誰が泣きますかツ」と又も深刻な一語を迸らせて、矢部君、あなたまだ御存じありますまい、金大人の生命は終に酒に奪はれるといふ事を」。

「そりや又始めて聞く。どうしてゞす」。

 鐘宇涙は瀧のやうである。

「それを僕からくれ〴〵も申すのです。で、肯かれん」。

「ですから、どうして」。

「醫學博士樫本先生からしたしく僕が聞いたのです。而もその時も金大人が新橋の花月で豪遊し、夜を徹して痛飮し、全然死人のやうに爲ツて了ツた、その翌日です、血を咯かれるのです。大いに驚いてそれから樫本博士を招き、まづ治療して貰ツたですが、その時博士がくれ〴〵も酒と色とを謹しめ、殊に心臟病の兆候が有るに因ツて、酒は一入節減なされ、さなくば數年を出でずして落名の悲しみに逢ふからと。そりや金大人に博士から直接に訓戒され、僕もその席上に在ツてしたしく聽いた、それ、それを、どうです、守られんのです」。慷慨に堪へられぬとの樣子で、「言ふまでも無く韓國の社稷は金大人の肩一つで實に背負ツて立ツて居るのでしよ。累卵の上に一髮で千鈞の石を吊ツてあるといふ有樣でしよ。支那でも然うなら日本でも最早密々に軍隊の刀を磨がせて居るのでしよ。かねてからの計畫とほり、指を拈ツて玆で金大人が起つ、すぐと硝烟彈雨でしよ。國家のため、實に東洋のため如何なる大事な御身體であるか御存じない人でも無くて、それで酒となると性根をとろかされて了はれる、殘、殘念ぢやありま……矢部君、何と思しめす」。

「御もつとも、實に至理です、さうですか夫ほど迄に言はれて、樫本博士に」。

「天下國家の事を思はれんでしよか」。

 狸寐入りか何か知らぬが、玉均いつの間にか快さゝうにすや〳〵と寐入ツた體。

「あツ、あれだ」とそれを怨めしげに鐘宇は指して、「情無い。あ、平氣だ」。更に訴へるやうな調子で、「矢部君、と言ツて何うしても僕は金大人を憎むといふ念になれんのです。駄目だ、相手にならぬ、國家のため共に謀るべき人でないと幾度か業を湧かせて、斷然袂を拂ツて去らうとした事も有りました。が、いつも後髮を曳かれる心もちがしましてな。のみならずです、餘人で無い貴下でもあり、且又金大人にも既にその際打ち明けて了ツた事ですから搆ひませんが、一度はあまりの腑甲斐無さに自分も死ぬ氣で、金大人を刺し殺し、それで一味の朴泳孝氏などをも獎まさうとして、既に手を下しかけた事さへ有りましたです。」

其三十五

流石の矢部も洪鐘宇の巧みな辯に些しく飜弄された氣味で我を忘れて目を圓くし、

「では金先生を一度は御殺しなさらうとした事が……」

「さよ、前後二回です」。

 洪鐘宇の此言はいよ〳〵逆の逆手で矢部を捩ツた。矢部は纔に、辛うじてわが顏色の變はらうとしたのを控へおさへた程である。

「二回といふと何時と何時とで」。

 美事釣り込まれたなと思ふ心を鐘宇は顏の色にも示さず、「今御咄しゝた時と、それから其前はじめて當國へ渡來した時とです。全くは僕が其はじめ當國へ渡來したのは金大人を刺すためで」。

矢部の顏色さツと變はツた。今は變はらせまいと中々制し切れぬのである。

「それでは中華黨などの御一人でゝもありましたので」。

「頑固派の殊に頑固なのであツたのです。日本頼むに足らず、大國の支那只頼むべきのみ、此主義で、その時は金大人が極めて憎く、終にそれ○○○、○○○、それらの指嗾により、充分たしかに金おとなを指すつもりで、今から思へば別人ですな、此國へ渡來しましたのです」。

 何さま玉均も然う言ツた。して見ると此洪鐘宇今は志をひるがへして全く金氏の味方と爲り、開化黨の主義の下に立つのであツて、そのはじめが初めゆゑ今も間者かと疑はれるのであるかとおのづと迷ひ入ツて來る。

 吁愍れむべし謀らうとして掛けた圈套は却ツて敵に利用されたのである。

 玉均は鐘宇を無二の味方と信ずるあまり、近頃に至ツては秘密中の秘密とする矢部の事、すなはち女裝させて清韓露此三國を忍び歩きする事まで明かしたので、鐘宇肚では大いに驚いたが氣振りにも見せず、猶とツくり聽き取ツてひそかに或る筋の手を經て支那の同志のものに通知したので、一切は手に取るやうに敵に知られ、就ては李之平を殺したのも矢部であるとの事も解かり、容易ならぬ奴ゆゑその矢部に對しては充分注意を怠らず、塲合ひに因ツては鐘宇の手で殺してゞも了へとの訓令さへ同志から鐘宇の許に來て居たのである。

 情け無くも金玉均は此陰險な犬の手玉に取られ切ツて了ツて、初め大いに疑ツて掛かツた矢部さへもそろ〳〵麻睡されさうに爲ツた。のみか、生命さへ危くなツた。鐘宇からの通知で一切を支那や朝鮮で知られて居て、そも〳〵此度矢部が無事で歸ツて來たといふのが殆ど不思議な位である。

 况んや鐘宇が玉均に對し、その一身のため國家のため亂酒をば謹しめと涙を流し聲立てゝ泣いて至理正當の苦言を進めるといふ事どう考へても間者とは思へぬ。

 特にその道を以てし、敵の肚に入ツて説き、敵の疑ふ處を却ツて逆捩に此方から解放して掛かるといふ鐘宇の得意は無殘や遂に矢部をさへ殆ど籠絡しさうに爲ツた。

 鐘宇また肅然として、「既往をあらまし御咄しすれば右のとほり、今はもう僕は金大人と生死を偕にせんと誓ひました位で、それゆゑ金大人の身の上の事は實に我身の上の事としか思はれませんでな。ところを身を傷るのを管はず、亂酒などされゝば腹が立つです。あゝ、よく寐なすツたなア」と玉均の方を見て又時計を見て、「やれ、も、二時宿で訝しく思ひましよな。寐ますか、些しでも」。

「かまひませんや。とてもの事に語り明かさうぢやありませんか」と思はく有るらしい矢部の返事。

「大きにそれもな」と言ツたが鐘宇また折り返して、「しかし僕も眠たくなりました、あまり議論した故か」。

 言ひ訖らぬ内大欠伸。

「さうですか。御快辯と御熱誠とで私は目が冴えました。寐られさうも有りません、私は」。

「では僕だけ御免をかうむツて」と鐘宇せはしく寢支度する。

其三十六

坐睡の儘熟睡して死人に均しくなツた金玉均に毛氈を輕く着せかけてやツて後矢部は何さま眠もくないか、その傍に端坐して深く思案に沈み入ツた。次ぎの間へ退いて洪鐘宇は枕に就いたが、幾程もなく鼾になツて、癖と見えて齒ぎしりなどをもする。

 濱風につれて浪の音或ひは遠く、或ひは近く、曉寒さすがに脈々として火鉢の火の痩せ行くのが、目立つ。更に炭をさし添へれば、程無く活人なツて、薄蒼い焔をも立つ。

 矢部はつく〴〵其焔を視た。

「薄氣味のわるい色だな。まるで形容すれば魔王でも吐き出しさうだ。暖かいといふより凄いと見える。さりとて火だと思へば冬の夜などは水よりも親しみたい。したしみたいが又氣味わるい。丁度あの洪鐘宇だ」。

 同時きツと隣室を視て、胸でしきりに繰りかへす。

「どうしても腑に落ちない。彼鐘宇、眞に全く間者で無いのか知らん。どうもそれがをかしいて。第一に辯が巧みであり過ぎる。

いやさ巧辯、かならずしも間者とも限らんが、間者かならず巧辯とは言ひ得る。酷評して見れば、亂酒を諫める、その諫め方いかにも巧い、巧いが婦人的である、男兒の諫め方でない。

涙を流していさめる、泣いて諫める、それも可からう。あれでは些し行り過ぎはせぬか。如何に情が迫ればとて――諺に男泣きとさへいふ、さほど仰々しくない處に眞實の處がむしろ却ツて有らうと思ふ。

それとも泣くのが癖であるとするか。いかに諫言とは言ひながら、それ式の事にあれ程無く、それ程情に脆い人間で、どうして刺客となツて人を刺さうなどゝいふ念慮が出るものか、出し得られるものか。

しかし彼は金先生を刺さうとしたと云ふ、而も一度ならず二度までも。彼は自身に俺にその事を述べた。どうも後先そろはぬ。

それとも情に脆いゆゑ、刺さうとしても手を下しかねたと假定しやうか。それでも訝しい。人は大抵みづからおのれを知る。よく知らぬまでも幾らかを知る。自分は賊がはらたけるか、人ごろしが出來るか、その否やは人間の所業の中でも重大な所業であるだけに誰とてもそれが出來るか出來ぬか位はあらかじめみづから知るべき筈だ、人ごろしが出來つろ思へばこそ最初は鐘宇も刺客たる人を引き受けたのだろ。でなくて何うして引き受ける。さすれば、その手を下しかねたといふのは情に脆い故ではない、更にある他の――それは何か今わからぬが――或る他の原因で下しかねたのだ。

更に疑へば刺さうとして手を下しかねたと云ふのが全での嘘かもしれぬ。それ程の事までも最早心服して打ち明けると相手に思はせるのが却ツて信を加へさせる道理ゆゑ。

どうも嘘らしい。わざと人の肺腑を穿ツて云ふのだ。一歩ゆづツて眞實として見ても猶うたがふべき點が有る。

刺さうとして手を下しかねたといふ程の人間に不釣り合ひなのは其辯舌だ。前後きちんと整ツて亂れず、要點に中り、究所を衝く、無駄は無くて直ちに胸元を刺す。そも〳〵胴骨すわツた者でなくて何うしてあれ程の辯が有らう。その辯でその胴骨のすわツて居るを知ツたといふ事は俺からの公平な觀察で、さも情に脆いらしく言ふのは其達辯の人が達辯を自由にあやつツて言ふ言葉だ。其處に多少の不眞實が决して無いとは言ひ切れまい。更に又刺しかねたといふのを嘘と假定する。すれば鐘宇は何の必要が有ツて金先生はじめ俺にまで嘘を搆成して言ふか。氣に入られるためか。欺くためか。氣に入られてどうする。憂國の志士ならば國家有るのみを知る、利慾もしくは其他の企望が無くて、何の必要有ツて氣に入られるやうにするか。是大いに怪しむべしだ。又欺くのか。既に欺くとすれば、その内心には相手に不利益な、そして己には利益な、何か或る物が有る譯だ。さすれば是大いに怖るべしだ、

怪しむべくして怖るべくある――それだけで間者と斷定して最早はなはだしい無理も無い。

更にまだ〳〵疑はしい所が有る。一旦咄しが濟んだら、たちまち鐘宇は眠いと言ツた。語り明かさうぢやないかと言ツても切りに寐たがツた。泣くまで情に迫ツたものが直に眠いとは何の譫言、寐ろと言はれても寐られるべき道理でない。それを如何にも眠さうで、あのとほり今は高鼾だ。どうしても怪しい。

よし枕に就いても輾轉それこそ眠られる譯でない。よしや平素寐坊としても今夜のやうな塲合に、とても眠り得るものでない。その眠いのは情の迫らぬたしかな證據で、もし然りとすれば先程の諫言も涙も皆狂言としか思はれず、同時に又情が迫ツて刺すのも刺しかねたといふ事も根底からして動いて來る。

どうしても然うだ」。

 决然と斷定すると同時に我知らず目をいからせて隣室をはツたと睨んで、

「よし、狸め、覺えて居れ、矢部が斯うして居る内は飽くまでも貴樣の邪魔をして、事に因ツたら命にも熨斗を附けさせるぞ。しや面のにツくい奸物め」。

 肚でしたゝか罵ツて、麥酒の殘瓶また引き拔いて、口から直にぐツ〳〵と飮んで、

「血だらけの豚か、鷄か、乃至鷲の肉が食ひたいわい」。

其三十七

入りかゝる夕日は相模洋を茜に染めて、立ち舞ふ白鳥の影いとゞ際立ち、暮山やうやく得も言はれぬ紫がゝツた色に變はツて、晝は蒔繪に似た松の簇立ちも墨繪のやうに見えて來た。涙の打ち方こそは緩いが、幅有り、高さ有り、慌てず噪がずに大布を絞ツて、その緩いだけ却ツて尊嚴の趣を添へるやうである。園主の好意かそれとも自然か、ほとんど浪の屆きさうな處に置かれてある一つの捨石、誰も皆腰をかけるから自づから滑になツて拭はずとも面は淨くなツて居る、それに只一人同伴も無く、ゆツたりと腰を掛けて居た一美人、即ち例の女裝の志士、矢部道任、今は僞名しての吉田きんであツた。

 無心で沖を眺めるのでは無い。海邊とは言ひながら十二月、よし今日は然程ならずとも富士颪もなく、滯留の人誰一人として而も薄暮に磯邊に出て居るものも無いのを、故さらに究竟として單身群を離れて居るのは容易ならぬ思ひ事が有る故で。

 前後見まはしたが誰も居ぬ。その見まはした目は轉じて此方からも見える、玉均、鐘宇はじめ自分どもの宿して居る貸し別莊の方へと回ツて、その前のとほり障子の閉て切ツてあるのを見定めて、落ち着いた上に猶一入落ち着いた樣子である。

 噫殘念に堪へられんな。どうして金先生はあれ程深く鐘宇を信用するのかなア。もう迚も口を以て猛省を促すことは出來ない。證據を擧げ、理窟を攻めて今あれ程までに説いてそれでも肯かれぬ。言はゞ却ツてこぢれさせるやうで、反對にいよ〳〵堅く信用するやうになる。手段に盡きたわい。情無いな、實に。俺の此鑑定、鐘宇を一個の奸物、金先生を狙ふ間者、獅子心中の蟲と睨んだのが抑もちがツたなら首でも好い。と言ツて馬鹿でもない先生だ、それが眩めば眩むもの、よくも〳〵鐘宇の奴め、あれ迄に籠絡しをツたな。しかし何うして可からうな。彼奴を近づけて居る内には早晩救ふべからざる一大事が――第一が支那と朝鮮とに對する吾黨の秘密是は明らかに知られ、それと第二に金先生の大事の生命……」

 竦然として又前後見まはした。

 容易ならん奴が舞ひ込んで來たものだ。國家のため金先生のため、不利益と認めた以上は寸時も早く排斥せんければ、と思ツて今のやうに右左りから道理を攻めて金先生に忠告してもつや〳〵と採用されんのだ。涙まで流して洪鐘宇は乃公の亂酒を諫める、あれで至誠は分かる、それを疑ふのはむしろ無理だと、驚いたなア、金先生とも言はれる人が唯だ此一點張りなンだ。

そこで此上は最う已むを得ない、諫めて聞かれずば、背に腹は代へられん、可哀さうではあるが非常手段、只それだけだ。

だが、それが難いのだて。彼奴疾くにもう金先生から聞いて、俺が同先生のため又日本の國家のため身を抛ツても事に當たる人間だと言ふ事や、又は支那へ行ツて熱心にその軍機を探ツたといふ事や、又は大阪の花屋で金先生の刺客たる李之平に返り撃ち食はせて、毒殺した事や、それらを悉く知ツて居る以上は中々一筋繩で手には乘らない。わざと辯で胡魔化して先方の味方になツて次第に欺いて、然る後非常手段を施すといふ事が一番安全で又必らず好結果を得る方法だがどうしても尋常ならぬ彼奴、加ふるに此俺には油斷すまいとの先入の考へが有るものを、それを欺きおほせるといふのは容易でない。一生懸命に行ツたら終には成るかも知れぬが、それには時日が掛かる。時日が掛かツては何にもならぬ。一日を過ぐせば一日の不利益、又一日の油斷もできぬものを。

暴く短銃か刀でやらうか。中々油斷せんからなア。况んや刺客となツて忍び込んで居るほどの奴、いざと云ふ時の用意、稻妻が光ツたら身をかはす位の覺悟は有る。

或ひは誘き出して山中か海邊で――六つかしい、奴なか〳〵おいそれと誘き出されまい、餘人は兎に角この俺には。

寐込みをやらうか。すぐに警察沙汰になツて、いきほひ俺の身に及ぶ。縛られる位怖るゝに足らずだが、此國家多事の今日空しく獄窓の中で日は送れない。

さア是も行はれずと。

それとも又例の毒殺か。只ならば是が一番譯無いが、彼奴め矢張り油斷はせんからなア。その命を俺が既に狙ツて居るとまでよしや思ひ到らぬにしたところが、些しでも身に異状が有ると知ツて其儘醫者にも掛らずうツかりして居る奴でない。毒ならばやはり亜砒酸のやうな、盛られても一寸氣が付かず、それで急劇な力の有るものに限るが、それとても此所では駄目だ。内科の何某博士さへ丁度、いやさ生憎、此園に滯留して居るもの。のみか毒の盛り方それさへも困難だ。まさかに料理する臺所へ行かれもせず、女中が持ち運ぶ途中、手段で盛れば盛るだが、その膳が何處へ行くか知れない。意地わるく肝心の金先生の所へでも行ツたらそれこそ大しくじり。いはゆる鼠に投ずるに器を忌むで、名案は無いものかな。已むを得んければ俺も死ぬ氣で大げさに行るンだが、扨見す見す國家の大事を目前に控へて居て、徒らに死ぬべき生命でも無い。嗚呼誰か智慧を――はて神算鬼籌を得たいがな」。

 吾を忘れて腕を組むと同時、今更のやうに風の冷つくのに心注いで、不圖また沖の方を見れば、冬の日脚の名殘無く、いつか遠くから暮れそめて漁火の影もほのかに動く。月でもあツたなら又格別、とに兎女裝して居る身で夜まで一人濱邊に居るのも他の疑惑を招く道理と心附いては石をも離れた。まづゆツくり又今夜思案を凝らして見やうとの决心、その儘歩を移して室に戻れば、金玉均のみ寐ころんで居た。

「鐘宇さんは?」と矢部が問へば、稍不興氣に、

「風呂だ。居らん方が却ツて可からう」。

「ですが唯伺ツたのです」。矢部も些しくつんとした。

其三十八

洪鐘宇が風呂から戻る頃に晩餐の膳も來て、兎に角また例の如く酒になツた。

「鐘宇、今夜は忠告に從ツて澤山は飮むまい。麥酒二三本ならば可からうなア」と玉均は許可を得るのを哀願する語氣。

「それはもう御好きの物ですから――御過ぐしさへ爲さらんければ」と鐘宇は微笑しながら矢部の方を見る、別段何の意味ともなしに。をかしな奴だと矢部のみは思ふ。

 玉均洋盃を鐘宇に與へて、注がうとすると、手で制して

「いたゞきます。有り難うはございますが拙者は……

「何、飮まんのか。なぜ」。

「今日から拙者だけは」。

「訝しいな、なぜ」。

「いや戴いたも同じです。昨夜もあのとほりつひ我儘に御いさめ申しまして、後には言ひ過ぎたかと悔いても居ります。それと云ふのも一圖に御身のため又國家のためを思ふ故ではありますが、何しろ人に向かツて之をつゝしめと言ツて己れ躬から行ふことが出來なければ、言ツた理屈の貫目も減る譯で、それ故拙者だけは今日から」。

「禁酒すると云ふのか、此僕のために」。とばかり玉均悄然として。

 鐘宇は沈痛きはまる語氣で、「人をしてその快樂を殺がしむるといふ事、考へて見れば實に無情を極めた事です。馬は麥を好み、猴は果實を愛する、その自然な所を無理に枉げやうとする、是ほどの無情は復有りません。敢てさりながら金大人、大人をしてその好ませられる處を殺がしめ、その快樂を減らしめるといふ、只ならば忍び得られぬ無情な忠告、それを爲すものは此鐘宇――血も有れば涙も有ります嘸御にくしみかと思ふ、又御いたはしいとも思ふ――但し御一身のため國家のため、忍ぶべからざる情を制し、堪ふべからざる苦痛を堪へ、涙を呑んで敢て之を強ひると云ふ事、我ながら殆ど堪りません」。その言葉の終尾の邊は大かたふるへてさへ居る。

 よくも〳〵化けくさると矢部その腹は殆ど煑えくりかへる程で、席を去らせず其皮を剥いてもやりたい。但し肚は肚、表向は表向、更にとくと其樣子を觀察しての事と故さらに注意して生眞面目の生眞面目でさも感じたらしく聽いて居る。

 稍しばらくの間默然として居た玉均はやうやくにした嗟嘆と共に、「鐘宇、そりや併し却ツて無情だ、是が全然禁酒するといふのでなし、只僕が是から些しく節制するといふだけだ。それを然う君のやうに、如何に僕の身や國家のためを思へばとて、さう君のやうに言はれると、一本や二本の此麥酒さへ快よくは飮めなくなる」。

「いや、さういふ譯では」と鐘宇些しく慌てる氣味。

 此所ぞと矢部は跟け入ツた。

「そりや洪君、さうですぞ。諫言にも程度の有るもの、君がよしや酒を禁じたとて金先生が心から節制する御氣にならなければ、馬鹿々々しい、何の益にもならんでさ」。

「そりや、さうだ」と玉均は嬉しげに。

「况んや先生は既に是からは諫めにしたがツて節制をも爲さらうといふ、その塲合ひと爲ツて居ながら、他の快樂を奪ふのが氣の毒ゆゑ自分も飮まぬと、それぢや言はゞ面あてゞさ」。

「といふ程でもあるまいが」と玉均調和する口ぶり、但し斜ならず嬉しがツて居る。

「さういふ譯では」と流石鐘宇も面色些しく異彩を帶びて、「只己れから矯めて然る後他に及ぼさうといふ………」

 せゝら笑ツて、「そりや塲合ひが有るです。そりや頑是無い子兒抔を親が教誨する塲合ひに或ひは用ゆる一法です、一法むしろ變則の。金先生などに對してそんな手段、あはゝツ、むしろ何か思ふ處有ツての狂言のやうに………」

「怪しからん、狂言とは」。鐘宇滿面の怒氣。

「……とは言ひませんよ、と言ツたのでさ」。

「おなじ事です」。

「ちがひます」。

「まあ可いぢやないか。もう分かツた」と玉均さすがに聞きかねて「何しろ鐘宇、好意は受けた。矢部のいふとほり面あてがましい事は僕は不好だ」。

「决して面あてゞは………」

「いやさ、ではあるまいが否だと言ふのだ。さツ、矢部、もう可いさ議論は。僕も快よくいつものとほり飮む。君も飮め。さ、矢部、注いでやろ」。

 何思ツたかほろりと計り暗涙が矢部の目に一滴鐘宇は睨めるやうにそれを熟視する。

「鐘宇、さ、君も飮め」。

 間がわるさうに、「では何うぞ少々」。

「ぷツ」と玉均吹き出して、「何も少々と言はんでも。それとも又僕にいふ面あてか」

 うまく遣られて禺の音も無い。

「飮む、今夜は僕」。矢部その捩金の本性が出た。

「うまい、斯ういふ時に飮むのが。人を馬鹿、翌日をも知れぬ命だ。戰爭の有るまで繋ぎたいが、正義のため、博愛のためもし已むを得ぬとすれば今でも捨てゝ惡魔の奴等を。生きて居る内が花、飮むべしだ、大に飮むべしだ」と言ツて忽ち氣を換へて、「洪君、鐘宇先生、妙な事を聞くが、君は血は好きか」。

「血とは?」

「血さ、紅い血さ、鮮血さ、淋漓たる生血さ」と語氣までも不作法になる。

其三十九

意外な問ひに洪鐘宇は寧ろ氣を呑まれた氣味である。

「血を好きかとは、一體どういふ血をです」。問はれた故仕方無いとの語氣で言ふ。

「すべて何に限らず、血をです、鮮血です、生血を見るのをです、早い咄しが戰爭などしてしたゝか鮮血を見るやうな事をです」。

 さう云ふ矢部の聲に言ふべからざる凄味がある。のみならず男子とは言ひながら花の如く美くしく粧ツて例のとほり美人の姿をして居るところで、此薄氣味わるい事を言ひ出した、その凄味一方でない。鐘宇ひたと呆れはてゝ居る。

「醉ふたのか、矢部、つまらん、奇を好んだ事を。何しろ今夜議論は廢せ。折角の酒が不味くなる」。玉均は持てあまし顏。

「何の醉ふもンですか、麥酒などに。しかし御不快を招いては御氣の毒ですから、それでは廢めます。が、洪君、もう直だな血の味を知るやうになるのも。僕は是から血を見、血を味ふ事ができるのが樂しみでならない」。

「何處でそんなに血を?」と鐘宇が。

「知れてるぢやないか、君の國か支那あたりでさ。平壤が屈指の修羅塲に爲るだらうとさへ言ふ…………」

「よせ、〳〵、矢部」と玉均苦わらひして、「何しろ僕が酒を飮み過ぎるから起ツた議論だ。もう可いさ」。

 よろしく制して餘談に移ツたが、流石に鋭い洪鐘宇の事とて既に大方矢部の心中をも推察した。

 食へぬ奴。刺客となツて乃公が玉均に近づいて居るのを知り居ツたわい。知られては厄介、事に因ると乃公が危い。玉均は既にわが手の物だが、もとより相手はその氣に入りの矢部、どう説き付けられるかも知れはせぬ。あべこべに乃公から先んじて矢部を亡いものにして了ふか、それともそれと無く遠ざけて、朝鮮へなり、支那へなり追ひやるか、此二道の一を選んで手ばしこくするに限る。

 肚で斯う思ツても何氣ない顏。二人とも針を呑み、毒を藏して相互ひに樣子を齅ぐ。刺客を二人しかも反對のを二人まで、同じ假面の下に突き合はせた、是また一の奇觀であツた。

 麥酒も多くは飮めぬ故、起きて居るたのしみも無いが、玉均はやく寐ると言ひ出したので、鐘宇と矢部と一所になツて夜の物など展べてやり、其臥床に入るのを見て二人とも次の室に退ツた。

 誰も忘れて居たと見えて手を付けなかツた紅林檎の大鉢が床の間にあツたのに不圖矢部は心づいた。單に林檎として心付いたのでは無い、それを利用して、今や、實に今夜、邪魔ものゝ洪鐘宇を殺して了はうとの怖ろしい工夫が浮かんだので。

 しばらくは四方山の物がたりに夜を更かして、もろともに又ちび〳〵と麥酒などを飮んで居る内に、矢部は便所へ行くとて、鞄から紙など出して一寸室外へ出て、やがて又程無く歸ツて來て、何思ツたか床の間へ近よツて山水の掛け軸を一瞥した。

 すぐ立ち戻ツて座に就きながら、「洪君、片明りで見ると彼の軸の繪の右の方の高い山は一寸人間の顏のやうだね」。

「なるほど、さう言へば大きに。とんと畫探し見た樣ですな」。鐘宇も何氣無い。

「文晁ばやりで至るところ文晁だ、流行は君の國へさへ及ぼして居るのね」。

「は、大分」。

「それにつけても國家の危殆をも知らず、無心の人民は平和の夢を貪ツて書畫などを愛玩して居るのが、一朝耳も裂けるやうな砲聲を聞くに至ツたら何う、どれ程に驚くかと思ふのさ」。

「あはれむべしですな」

 鐘宇の返辭さツぱり冴えない。矢部も些し氣が拔けた具合ひ。

 卒然として「あツ林檎、好下物、賞玩しやう、一つ。」

 起ツて鐘宇には管はず、只一個を洋小刀と共に持ツて來て、「奇麗な色だなア」とひねりまはして、やうやく剥きに掛る。嗚呼、鐘宇の命は風前の燈火、矢部の思ひついたその林檎を利用して殺さうとの奇策は大抵成功しさうなのである。

其四十

矢部は林檎を利用して洪鐘宇を殺さうとしたのは、矢部もその國は忘れたが、何でも外國の判決例にあツた故智に倣ツて思ひ付いたので、即ちやはり毒をもツて殺す法である。

 手づから相手の見て居る前で皮を剥き、一個を半分に割ツて相手と自分と半分宛食し、それで相手をば毒に中たらせるので、もし旨くさへ行れば必らず成功する事を得て、それで露顯の端緒も殆ど得がたい程である、よしや見す〳〵中毒の死と認定されても。

 即ちあらかじめ洋小刀の半面に毒を塗り、巧みにさへ林檎を二つに割れば、半面の毒は半片の林檎に移ツて、それで一方の半片は何の異状も無くて居る、その方を自分が食し、毒の有る一方を相手に食させる。人の調理した物なら兎に角、天然物を、而ももろともに分けて食するといふに、誰とて疑念をさしはさむものも無い。

此きはどい法を敢て矢部は試みやうとした。一歩あやまてば自分も死ぬのを。

 己れ金玉均をねらふ妖怪、また日本の害をする奸徒、この矢部の目にそれと見破られた以上は不憫ながらも命は貰ふ、明朝は早死骸ぞよ。

 とばかり何と無くにツたり笑ツて、「あツ旨さうだ、涎液が出る」。

 鐘宇の顏を窺へば稍物濟まぬ體である。

 さかのぼツて經過を語れば、矢部がその些し前に便所に行くとて鞄から紙を出した、その時は紙の中に忍ばせてわが洋小刀と亞砒酸を共に取り出したのである。

 つぎに室外へ出て、充分にその毒を洋小刀の一方の面に塗ツた。

 つぎに床の間の畫を見るふりしたのは其處にある林檎の傍にわが洋小刀のあらかじめ窃と置くためであツた。

 それを怪しいと鐘宇が心づいたか何うかは疑問である。それ故さぐりを入れるつもりで、四方山の噺しを仕掛けて見たが一向冴えぬ。その冴えぬと云ふのは何うも相手からしてわが樣子を嗅がれるらしい。もはや此上は思ひ切れ、斷然と行ツて見ろ、先んずれば人を制す、行はれなかツたら又その上の事と、終に實行しはじめた。

 鉢の儘澤山に林檎を持ツて來ては外のを取られる虞が有るといふ早速の機智から、それ故わざと只一個を持ツて來た。絲よりもこまかい注意、それを鐘宇の慧眼は看破するか。

 正に只是すさまじい機智と、機智との比較である。

 林檎は剥けた。鐘宇の命もそれだけ削り減らされたのである。

「あム、好い香ひ、どうも此實に」。

 と言ツて矢部また略を仕掛けた。

「この好い香ひ、どうです、まア」とわざと先鐘宇の鼻の前へ差し出して、「…………でしよ」。

 鐘宇も仕方無い。「さようですな」。

 引ツ込まして洋小刀で剥いて食はうとして、さア九死一生の刹那である。

 とゞろく胸をぢツと怺へて、「あんまり旨さうだ。どうです、あがりませんか半分」。

「ありがとう」。

 〆めたぞと、割らうとする處へ、「あちらにも有ります、それは貴下が」。

「ですが、どうせ剥いだのですもの」。

 鐘宇默ツて居る。矢部も何處やら氣味わるくなツて來た。が、猶さりげなく、

「桃を分かつも子瑕の情です。一つ物を分けて食ふのも友情。さア」と割ツて差し出せば、

會釋して受け取ツて、ひねりまはしてつく〴〵見て、扨しかし口へは入れず、

好い香ひ、旨さうだ」。

 矢部は早食ふ。「あツ旨い。旨いです、君」。

「は、さうでしよ。しかし矢部さん」。

「えツ」。

「此林檎は僕は食べますまいよ」。

其四十一

その林檎に毒が有ると氣取ツて洪鐘宇は食はぬといふのか、それとも單不好なのか。いづれとも分からぬが、偖やうやく岸まで漕ぎ着けて來た、いざと言ふ間際になツて、「この林檎は食べますまいよ」、その言ひ方さへ變である。或ひは悟られたかな。

「なぜです。御不好?」何氣無い體で反問したつもりでは有ツたが、顏色も稍變はツて居た。

 はい、どうも不好です。御附き合ひして食べやうと思ひは思ひましたが、扨いざと爲ると、何うやら」。

「どうやら何う?」

「どうやら不好になりました。折角ですがそれ故に」。

「しかし何うやら不好になツた、それでは些しく訝しい。何か原因でもあツて僕の剥いたのが御氣に入らん樣にしか聞えず、唯食べたくないと云ふなら兎も角も、單に何うやらでは頗る不快な………」

「單に食べたくなくなツたからです。どうか貴下召し上がツて下さい」。

 試みるためか何うか知らぬが、鐘宇はその己れの分の片割を却ツて矢部につき戻した。

「御不好とあると強いては决して。僕もしかし不好きになツた」。

「なぜです。あれ程上手いと仰ソて居たばかりで一旦拙者の食ふべき物と爲ツたにもせよ、腐りもしません、毒もありません」。

 いかばかり此最後の句が矢部を驚動したが、言ふだけが無駄である。鐘宇はたして之を無心で言ツたか、故意で言ツたか、その眞意の分からぬだけいとゞ猶氣味わるい。

「あがツたら可いでしよ、大分御好きであるらしく御見受け申しましたに。何も拙者に御かまいなくとも」と此度は先方からの逆捻。

「いえ、もう澤山に爲りました」。

「あがりませんか、それでは勿體無い、然る上は拙者がいたゞきましよ、但し今は滿腹で何も物欲しくありませんから、仕舞ツて置いて明朝でも」。紙取りのべて包まうとする。

 取ツて置いて他の物にでも、もし試みられたなら忽ちにして毒は知れる。氣が注きをツたか、畜生――駄目。もうはや此手で迚も行かぬ。證據を取られてたまるものか。

「いけない、そりや、取ツて置くなどゝ。時間が經てば澁が出て、とても食べられたものぢやない」。

「中毒でもしますか」とをかしく笑ふ。

「どうか知らないが藥でもあるまい。強ひてその半片を明日に爲ツて食べずとも他にまだあの通り滿足なのが幾個も有る」。

「でも是に限るでしよ」。

「え、何」。

「是非此半片に限るでしよ、是に限ツて拙者に食べろと仰やツたでしよと何處やら凛として言ふ。

「そりや今食べるならばさ」。

「それでも子瑕分桃の芳志でしよ。その芳志を敬んで領するので」。

 檎縱自在に翻弄して、その儘つと身を起しながら、「御先へ失禮しますが、眠ります。いづれ又明朝。さやうならば貴下は御緩りと」。

 言ひ捨てゝ臥床へ轉げ込んだ。林檎はその儘其處にある。矢部今更爲すべき手段に盡きた。薄氣味わるさ一とほりで無い。どうしても悟られたらしい、その返報は必らず有る。返報必らずとも怖ろしくは無いが、やみ〳〵と此儘是ほどの奸物を仕留めずに了ふ事、いかにも〳〵殘念で、その上いよ〳〵猶金玉均の身に取ツて危難を加へる計りである。さりとて是迄に巧んで十が十まで網より外へは逸がさぬ魚と思ひ込んだのさへがらりと外れて、瓢箪鯰おさへ處も無く、彼はつるりと脱けて逃げて平氣で尾鰭を振ツて居る。どうでも池中の奴ぢやない。又それだけに怖ろしい。不吉な事を思ふやうだが、此分で行ツてうツかりすると金氏玉均の一身は終にどうか斯うか此妖魔に取ツて押へられて了う。はていよ〳〵弱ツた事。此の上はもう已むを得ぬか――返報の來ぬうち今一撃。

「命と命との取り換へツこで、暴療治してくれべいか」。

其四十二

其あくる朝の洪鐘宇は更にいつもと變はツた體をも見せぬ。林檎の林の字をも言ひ出さぬ。些しく變はツた樣子かと思はれるのは常より却ツてにこやかにみえる位のもので。

 矢部また呆れた。空砲に早腰ぬかした心もちで、氣味わるさ只ます〳〵加はる。今何を言ひ出すかと計り、敢て此方から素引いても見ず、唯一人の胸でのみ繰る不愉快、前日而も同じ相手たる其人に食ツて掛かツた時とは全で別人のやうである。

「金大人へ些しく御願ひが有りますので」と鐘宇やがて切り出した、一同の朝飯も濟んで茶と爲ツたところで。

「はやう申し上げやうと思ひましたが、つひ此處に滯留して居て面白さに日を送りました。御承知の如く刻下の形勢内外共に穩かでなく、思ふに清國あたりの此頃の警備も一方ならぬ事でございましやう。その邊を探る必要も有ると過日も仰やいましたが、實に拙者も御同樣に感じますので、就ては最早種々の御打ち合はせも大抵濟みましたから、是から御暇をいたゞいて拙者は一つ清國へ渡ツて見やうかと存じますが如何でしよ」。

 矢部には意外な言葉であツた。いよ〳〵端倪すべからずと宛然片唾を飮んで默然として傍聽する。

 玉均すこしく首傾けて、「その事は僕も思ツて居ツたのだが、渡ツて探ツて貰ふ人を一寸思ひつかなかツたので――君が行ツてくれゝば好都合とも何とも。一日も早く願ひたいな」。

「なるほど。丁度此頃拙者の健康もすぐれて居りますし、又どうか斯うか盤纏も有りますし」と微笑めば、

 玉均もまた笑みで迎へて、「有るか、充分に」。

「三百圓ほど」。

「おほツ不思議だ、君にして不思議だ。よく然う持ツて居るの」。

「儲けましたので。へツ、面白い事で、花で、○○公使と領事とを相手に過日偕樂園で、本當かと、本當ですとも」。

「驚いたね、隅へは置けない。それは然うとしても幾分か又僕の手許からも上げやうか、どうか君が其决心なら一日も早くね」。

「他にもう御用はございませんな。さすれば大體を御打ち合はせした上で今日出發しても可いくらゐで」。

「勿論善は急げと云ふ。それぢや然う爲やうか」。

 途端取り次ぎの下女が來た。「何ですえ」と矢部が椽端まで出ると、下女は一封の書翰を出して

「御つかひの方が是を。あの御受け取り書を」。

「受けて見れば金玉均宛朴泳孝の書翰である。すぐ領收書を認めて下女を去らせ、玉均まづ開いて一讀して微笑を浮かべた。

「そろ〳〵動き始めたよ、東學黨と命名して」。

「も、始めましたンですかと」矢部も鐘宇も一齊に。

「いゝや、まださ。團結がそろ〳〵出來て、蠢々動きはじめたのだ。で、斯う書いてある、武器、特に銃器の不足で弱るし、又綿火藥などの供給が皆無ゆゑ、京城をどう噪がせる事も爲らないとさ、で、それに就き相談したいから來いと言ふから、僕は是から一走り朴君の所へ行ツて委細評議しやうだが、愈よもう君を猶煩はして支那行を試みて貰ふ必要が迫ツたとは今からでも斷言し得る」

 鐘宇何ゆゑか頻りに聞きたがる樣子。

「首領は誰ですな。どの位の人數の團結が出來たのでしよな」。

「分からん、それは。けれど大抵は推察も付くさ。何しろいよ〳〵刻下の形勢が迫ツたといふのは事實だ。面白い、多年の宿志も是から遂げるのだ。矢部、時間表見てくれ、國府津發東京行の滊車の、今から行ツて丁度乘れるのを」。

 折も折、また下女が來た。飛び起つやうに矢部が立ち迎へて見れば今度は電報、金玉均宛で差出人の名は分からず。

 開封して金玉均、「うム、朴君からだ。今日尋ねて來るとある。此方から行くのを待ツて居られずに來る、こりや大事件だわい。しかし行きちがひに爲らなくて可かつた。矢部、朴氏が來たなら矢張り直に通してくれと宿へもどうぞ心得させてな」。

「かしこまりました」。

其四十三

午後二時の頃朴泳孝は來着した。玉均は直ちに出で迎へて、別室に請じ、泳孝の需めに從ツて、矢部をも鐘宇をも遠ざけ、凡そ二時間あまりは秘密の會談に費して、やがてそれが終るや否や猶至急の要務が有るとて茶もろくに飮まず、泳孝は歸ツて了ツた。

 それだけでも只ならぬ風雲とは想像される。泳孝を送り歸して席に戻ツた玉均の顏色にも容易ならぬ雲が棚引いて居る。

「鐘宇、いよ〳〵大事と爲ツて來た。矢部も聽いて可い。もう東學黨の蜂起するのも數月を經まいと云ふ、それから上海あたりの警戒も非常になツて、北京の火藥廠には百七十人からの夜業者を加へたとの事、それから日本から行ツて居る軍事探偵の吉永といふのと、今一人姓不詳の男とが天津もよりの鐵道工夫をして居たのが行方知れずに爲ツたとの事、その意味は説明しないでも解ツて居るだろ。他に機密も有るがまづ言はないとして置いて、偖いよ〳〵是からは二兄を煩はす、鐘宇は上海へ行ツて道臺の手加减各營の擧動、それから申報社員の動靜、是を旨として偵察してな。それから又矢部、君は變はツた方面、その是から東學黨と名唱ツて起る一派へ近づいて、その樣子を見てくれ」。

「樣子を見る、そして報告いたすのですか」と矢部が。

「うム」と考へて、「旗を揚げた以上は固より騷擾を極めるから一々報告など出來るもので無い。近づいてな、まづその味方に爲るつもりで居てくれ。兵器や彈藥の供給をも、もし頼まれたら引き受けて」。

 吁そんな秘密の命令、すぐに此座の鐘宇から仲間へ密告されるのにと矢部身も世も有られない。

「いや分かりましたが、二人一度に伺ツても混亂しますから、兎に角洪君への御命令から先へ。その後で私のを」。

「いや一度に双方に聞かせた方が互ひに參考になるよ」と玉均此方の思ふ萬一をも思はぬ。「しかし鐘宇、矢部、是は嚴に言ツて置くが、鐘宇の上海へ行く事と矢部が東學黨に近づくといふ事とは實に實に秘中の秘で、他に漏れて知られるべき事でないので、もしも、さ、ま、有るまいが、もしも洩れて敵に知られゝば、もとより命は無い事、それは管はぬとしたところで、いづれ君たち二人の内から洩れたとより外思はんから、そのつもりで居るべしだぜ」。

 非常に意味有りげに言ツて、更に言葉を改めた。

「さて今後の打ち合はせだ、それを今爲て置かうと思ふ。だら〳〵九で、嬉しいやうな、心細いやうな、何とも言へぬ心もちで、僕も殆ど前後顛倒するやうだが、思ひ付いた事だけは速く濟ませて置かなければ。と思ふから今後の打ち合はせだが、東學黨の旗色一つで僕もふたゝび立ち歸る、ふたゝび故國の土を踏む」。包みきれぬ怡々とした顏色

「然うなると嬉しいですな、その嬉しさ想像し切れませんな」と先口を開いたのは鐘宇である。

 玉均重ねて、「さう爲ると二兄にも或ひは彼の地で會ふ事になツて、却ツてふたゝび日本では相會はぬかも知れはせん」。

 後に思ひ當たられた、是實に厭ふべき辻占であツた。とも知らぬ凡夫の身、玉均は早むしろ空想にのみ驅られ驅られる。

「又さうだ、日本でふたゝび相會ふやうではつまり猶不得意の境界なのにちがひ無いのだからなア。僕はそれ故君たちと故國朝鮮の土を踏み、故國朝鮮の風月の前で一杯の樽酒を傾けたいと思ふ、はや今からそれを樂しみにする」。

 その嬉しげな状、むしろ憐れな程である。鐘宇も去ツて居なくなれば、玉均の身の上さして苦勞でも無い。いはんや玆に東學黨も蜂起するといふ、それへ近づくのも面白いと、矢部も一つは安心した。

 只鐘宇が朴泳孝からの通知も來ぬ前に自分上海へ赴かうと言ひ出した心底、是一つの不思議であるが、明きらかに其心事を解剖すれば、只矢部を遠ざける一策で、もとより上海へ行く氣も無し、さう言ツて一旦玉均の傍を去り、矢部に油斷させ、一面玉均からは矢部に命令して朝鮮へ赴かしめ、矢部が同地へ行ツた處で、わが仲間のものに殺させて了はうとの心算、そこで自分は又入れ代はりに玉均の許に戻るとの工夫。

 その工夫を行ひかけた矢先、天は鐘宇に幸したか、東學黨蜂起の兆候有るとの通知で、鐘宇の策を待たず、否應無し矢部も韓土へ行く事に爲ツて、面白くも風雲はどうやら鐘宇掌中の物となりかけた。

女裝之探偵 前篇終