山田美妙『女裝の探偵』について

『女裝の探偵』は山田美妙のスパイ小説である。

矢部道任といふ男が女裝し、金玉均の軍事探偵として日本、朝鮮、清を舞臺に暗躍する活劇である。

諸本

『慨世志士 女裝の探偵』(前後二册)として明治三十五(一九〇二)年に青木嵩山堂から出版された。その後少くとも明治四十三(一九一〇)年に重版されてゐる。大正三(一九一四)年にも出版されてゐるらしい(*1)。

昭和十年の『美妙選集』にも收められてゐる。變體假名を通用の假名に直し、ルビを大幅に削つてゐる。連續した四段落が完全に拔け落ちてゐる部分があるなど、誤脱が多い。

梗概

矢部道任(やべみちたふ)は繼母の兄である漢籍の師に愛國心を笑はれ、家族と喧嘩をして家出する。矢部は朝鮮から日本に亡命してゐる政治家金玉均(きんぎよくきん)に、身を寄せさせてほしいと頼む。金玉均は矢部を島田絲子の許に行かせる。矢部は島田に、女裝して敵情を探りたいと言ふ。實は、金玉均が島田の許に矢部を行かせたのも矢部に女裝させるためであつた。矢部、女裝の術を身につける。金玉均は秋(あき)子爵の別莊に矢部を連れて行く。秋子爵の妾が矢部を金玉均の妾だと思つて疑はないほどに、矢部の女裝は完璧である。

矢部は、支那人に成りすまして武官をしてゐる李朴(りぼく)といふ日本人のところへ生き、支那の機密情報を聞く。そのとき、ちやうど金玉均を暗殺するべく李之平(りしへい)が日本にゐる李逸植(りいつしよく)の許へ遣はされる情報を得る。矢部は李之平を尾行し、知りあふ。矢部は大阪で李之平の鞄から機密情報を盜み、罐詰に毒を入れる。矢部は日本軍の奈良大尉に李之平の鞄から盜んだ機密情報を提供する。矢部が金玉均と秋子爵に李朴から聞いた機密情報を話してゐたところ、李之平死亡、李逸植重態の報せが入る。

數年後の明治二十六年、貸し別莊で矢部と金玉均は再會する。このとき矢部は朝鮮語を身につけてゐる。矢部は洪鐘宇(こうしようう)が金玉均を殺すつもりだと言ふが、金玉均は信じない。そこに訪れた洪鐘宇は一見立派な男であるが、矢部は洪鐘宇が敵であると見拔く。矢部は洪鐘宇を毒殺しようとするが失敗する。

朝鮮で東學黨による内戰の準備が進む。矢部は朝鮮へ、洪鐘宇は上海へ、金玉均の命令で調査に行く。矢部は朝鮮で小田吉數といふ商人の妻の振りをして東學黨の尹其容のところへ行く。奈良大尉も日本軍を辭め、東學黨の一員になつてゐる。尹其容が警察に送り込んでゐる金叔といふ男から、矢部は、矢部の正體が洪鐘宇を通じて支那に漏れてゐると聞かされる。

東學黨が蜂起する。金叔は矢部に、金玉均が上海に行くつもりであること、上海では金玉均暗殺の準備が整つてゐることを傳へる。矢部は秋子爵に電報を打ち、金玉均を日本に留まらせるやうに頼む。しかし電報は間に合はず、金玉均は上海で洪鐘宇に殺される。矢部の身にも危險が迫り、女裝を解いて朝鮮人に成りすます。

矢部は煙草商人に成りすまし、朝鮮に駐屯してゐる支那兵に取り入る。矢部は支那兵陳休から、遊女を身請けする金を貸して欲しいと頼まれる。矢部は良い儲け話しがあると言つて騙し、手紙を李朴の許に持つて行かせ、黒い豚が話したといふ嘘を陳休の上司張翼に傳へさせる。矢部は駐屯地に行き、久し振りに李朴と再會する。李朴は、立場上日本の軍事探偵を處刑せねばならないことを涙ながらに語る。李朴は矢部に、天皇の御影を持つてゐると取り調べられたときに危ないからと言ひ、矢部の持つてゐる御影を受け取る。

翌日、矢部が煙草商人として駐屯地に行くと、日本の軍事探偵の容疑で小田が捕まつてゐた。矢部は張翼に、黒豚の妖怪で小田に家族を殺されたと言ふ。小田を軍事探偵ではないと思つた張翼は小田を解放する。

矢部と小田が川沿ひの道を歩いてゐると、朝鮮人の怪しい男女に道を訊かれる。小田は機密情報を持つて日本軍のところに行き、矢部は男女を尾行する。女は本物の朝鮮人だが、男は支那兵であつた。矢部は男女を銃で殺して日本の艦隊を襲撃する計畫の密書を奪ひ、女の遺髮と銀貨を李朴のところに持つて行き、この女の夫に屆けるやうに頼む。

矢部がその密書を日本兵に屆けに行く途中、虎と支那兵が挌鬪してゐる場面に出くはす。矢部は虎を射殺しようとして間違つて支那兵を射殺する。矢部は一度捕まるが何とか逃げ出し、密書を本隊に屆ける。これにより日本の艦隊は海戰で支那の艦隊の先を越した。それからも矢部は樣々なところで活躍したが、最終的には毒死した。

評價

女裝の探偵」は毒殺されたとかしないとか當時新聞紙上で問題になつた阿部某を中心とした作で、矢部道任が女裝して朝鮮に入り、或は煙草賣となつて戰線に潜入して敵状を偵察し、幾度か死生を潜る波瀾重疊の一生を、今迄になく簡潔な筆で息もつがせず讀ませる。前後二册で、主人公の愛國的熱情に思想的背景を伴はぬ怨みがあり、多少講談的な缺點はあるとしても、作者としてこれだけ型を崩せば、又説話文學なり大衆文學なりへの進出が豫想出來るものを、是以外の作は再び美妙の所謂藝術意識、實をいへば分析意識に墮してしまつてゐる。

(鹽田良平「美妙の時事・世話小説に就いて」(『美妙選集』上卷所收))

病みあがりの美妙は三十五年一月に小説『女装の探偵』上下を書いた。これは、女装して密偵となる矢部道任という快男児のスリル満点の戦争小説であった。女装したスパイが日清戦争に暗躍するというアイデアは、いかにも美妙が思いつきそうな意外性があった。しかし、矢部という人物の精神的葛藤は描かれず、手なれた活劇物語で、病床にあってもこの程度の話ならばお手のものだ。八月には『桃色絹』、九月には『あぎなるど』、十月には『人鬼』を書いた。

美妙がしぶとく生き残るのは、こういった職人肌の執筆態度とも無関係ではなく、小説は「思いつめない」内容だ。美妙にあっては家族の生活が第一であり、なにがしかの原稿料が手にはいればそれでよい。

(嵐山、二〇〇一)

參考文獻

參考サイト

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