矢部道任を書いた小説、その後篇が印刷になツたところで、著者はいとゞ又死んだその人の事を思ひ出した。かれは此小説にあるやうな事をして此世の外の人となツたが、死ぬ前その覇氣は南洋フヒリツピン島の天にも向かツて、やがては又その島にもわたり、その島の義軍の統領アヒナルドオの部下に投じて侠骨を香ばしからしめたいとさへ云ツて居た、このフヒリツピンの義軍の戰史は今や美妙が專心著作の最中、その時も時、その著作を見たならば嘸喜ぶであらうと思はれる道任その人は既に一編『女裝の探偵』に過去の人物として書かれるやうになツてしまツた。事は終らず、人は居ぬ、人事はすべて是か。明治三十五年五月、この書の印刷のをはツた日。
洪鐘宇はその次ぎの日、まづ上海へと出立し、それから一日過ぎて矢部も發する事になツた。是が永の別れにならうとも知らぬ離杯を玉均も矢部もその前夜心無く酌みかはせ、あくる日の一番滊車で出發した
鐘宇をも見送ツたが、その日玉均は矢部をも國府津の停車塲まで送り、一先蔦屋の閑室へ通ツて、更に細々といろ〳〵の注意をも與へ、前夜吩附けた秘密の片の要點をも又繰り返し、もう十分ほどで滊車も出るとなると、蟲が知らせてか頻りに名殘りをしい體
「是からは最う怖い、まづ戰地へ行くのだからな。もとより君も死を期しても居やうが、さて或ひは此儘永別離となるかも知れん、僕が死ぬかさ、君が死ぬかさ。と思ふと未練なやうだが、何だか別れにくいての」。
さすが眼をうるませれば、劣らぬは矢部に於ても同じ情、
「まツたく、先生。苦痛は別離ですな、死ではありませんな。いつもと違ツて氣の所爲が、どうも御わかれにくいです」。目は早涙一杯で。
「つまらんとは思ふが滊車でも後れろ杯とも思ふのさ。だが、君が鐘宇に對して僕に與へた忠告は謹しんで領したよ。だが、昨夜言ツた大秘密の事件、即ちナイダマイト盜み出しの一條は實に細心注意してね、どうか失敗せぬ樣にな。京城へは忍び〳〵に同志者を集まらせるから」。
停車塲では早發車の警鐸が鳴る。
「あ、出る。それぢや」。
「さよならば」。
急いで駈け付けて乘り込めば玉均また跡追ふて來て、發車する迄眺めて居た嗚呼、これが二人最後の別れである。今聞いたより外は矢部もふたゝび此名士の聲を耳にせぬのである。
是非も無いとは此事か。充分に矢部は鐘宇を刺客と認定して、飽くまでも玉均に忠告を試み、容れられぬので已むを得ず、鐘宇を亡いものにしやうと試みて果たさず、終に又鐘宇に舞ひ戻られて、その果はやみ〳〵誘き出されて、金は上海の客舍短銃一發の烟りと消えて了ツた。その飛報を聞いた時の矢部の心中推測するに餘り有る。
玆にその後の矢部の動作を言ふに方り、明言するに稍憚るべき所も有るゆゑ、事實だけを簡單に記せば、矢部はそれから神戸へ行き、その後全く踪跡を晦ませたが。いつか何うして忍び入ツたか或る處の警戒嚴しい目を掠めてダイナマイトを盜み取ツた。
物が物ゆゑ其土地の警察部では殊の外おどろいて、それだから極めて秘密に犯人を搜索したが、更に知れぬ。犯人の遺留品と思はれる古手拭が一筋と讃岐の多度津の甲子樓(假名)といふ遊女屋の書き附けが一本現塲に在ツたので刑事巡査は勇んで、それから調べに掛かり、まづ其手拭の記號によツて丸龜の回漕店(假名)といふ家から出すものと知り、更に甲子樓の書き附けの日附と敵娼の名とに因ツて、やがて其地の其筋に向かツてその時の客の人體を取り調べてくれろと打電した(犯罪の現塲からは百里も離れて居るので)。
やがて調べたが要領を得ぬ。その時の客は商人で丸龜の者であツたとの事だけしか分からぬ。して見れば其回漕店に關係あるものだと目星を附けたが猶分からぬ。臭味の有るもの一人も無い。嫌疑者として試に逮捕しやうと思ふものさへ無い、
しかし其犯罪者は矢部なのである。さらば遊女屋で矢部が遊んだのかと言ふに然うでもない。畢竟それは警察部をして探偵の方針に迷はせるため故さらに其樣な遺留品を置いたので、實は神戸から大阪へ出、便船して丸龜へわたる船中で多度津へ行くといふ旅商人と懇意になり、その者の稍痴漢なのに乘じて口前よく欺き遊興費まで出して登樓させ、偖他日の材料にもと體よく言ツて其書き附けを貰ひ受け、手拭ひは又その邊の宿屋で胡魔化し取ツたものであツた。事實だけにして煩はしい故委細は省く。
それ故探偵はいたづらに闇から闇を辿ツてのみ居る内に、例のとほり婦人の姿で矢部は悠然その地を迯れ、壹岐の勝本港に來た。頼まれた一件は首尾よく手に入れた故、すぐに渡韓する心得である、御安心を乞ふとの暗號電報を取りあへず島田絲子宛にして發して、いよ〳〵夫から故國を離れて、死ぬか生きるかの敵地に踏み込む用意、その夜は例の 至尊の御影を飾ツて寸志ばかりの茶を奉り、萬歳を心の裡で唱へた。
首尾よく矢部も京城へ着し、其處に雜貨商を營んで居る日本人小田吉數といふ者を音づれたが、もとより夫に對する金玉均の紹介状に因ツたので、又此小田といふ者も言はゞ一個の志士とも言ふべきものであツた。來歴を正せば以前他の姓を名乘ツて外國語學校に在ツて支那語を学び、放蕩の爲め遂に退學され、徴兵にあたるのを否がツて老人一人の家の名跡を繼いで小田と稱へる事に爲りその老人死去の後朝鮮へ渡ツて一個の雜貨商となツた。その頃丁度丗四五、功名心に富み、冐險の事業を好む性質とて、一度東京で金玉均に會ツてから無法にそれと一味する氣に爲り、御用とあらば何をでも爲ると絶えず頼み込んで居た。
それ程ゆゑ玉均の手書を持ツて矢部に訪問された嬉しがり方は一とほりで無く、殊に矢部が女裝の軍事探偵だと云ふので、一方ならず驚きもし、自分も亦一の小説中の人物となツたかの心もちである
「金玉均さんにそれ迄の御世話になられ、又それまで誠を御盡くしになるとは實に御うらやましいです。私もどうか御仲間入りが爲たいです。丁度幸かうして此數へるにも足らぬ私に金玉均さんから貴下を御紹介して下さると云ふのは身にしみて忝く存じますに就ては何なりと國家のため盡くすだけの力をば盡くしますつもりで。どうか何事に因らず御遠慮無く」。小田は眞實籠めて言ツた。
「有難う存じます。仰やるとほり國家のためですからな。土臺が金先生からして、然う申しては變ですが、深く貴下の御氣象を見込んで居られますのでな、是非とも御頼り申して腹臟無く秘密を打ち明け、萬事助けていたゞけと云ふ、かう云ふ譯でして」。
「どうして恐れ入ります。御助け申す抔といふ程の力は更に御座いませんが」、悦氣滿々たる顏つき。
「それで手早く打ち明けて御咄し致しますが、どうかその前に豫め御承知置きを願ひたい事がございます。と云ふのは外でもなく、今度御相談にまかり出ました事は、實に私一人、もしくは金先生一個人の利害に關するといふ事ではなくて、實に確かに日本帝國の安危に關する事ですから」。
「なるほど、はゝア」。
「赤心、と申して眞向から御うたがひ申す譯では有りませんが、どうぞ日本男兒たる赤心、所謂日本魂をもツて、人類博愛の主義により、仁義の道を履み、身を殺しても國家のため、更に言ひ換へれば、畏くも 皇室の御心を休め奉るやうにとの是れだけの御决心で、然る後に御承諾を願ひます」。
犯すべからざる威嚴をよそほツて肅然として言ふ、その言辭が感情に脆い小田の胸には明きらかに確かな效果を奏した。女裝して美婦人と見えるだけ却ツて天使でも天下りして來て天帝の御命をでもさながら傳へるかに見える
「それはもう誓ツて。一個の商人とこそ爲ツては居りますが、是でも日本帝國の臣民でございます。口幅ひろうございますが、國家のためとか 皇室の御ためとか言ふ事ならば誓ツて赤心をもツてよしや水火の中をでも……………」
「わかりました、承知しました。薄々御承知でもございましやすが、日本と此國と支那との關係が此頃に爲ツて實に危機一髮といふ處に迫りましたのでな、つまり開く開戰はどうしても避けられさうもないので、それらの用向きで私も參りましたのです」。
それから三國の複雜した關係を巧みに説明し、軍機の秘密をも差し支へ無い限りはかも面白く説き聞かせ、つまり充分胸臆を吐く樣子に見せかけたが、その實矢部は猶用心に用心を重ねて居るので、秘中の秘は更に語らず、只その得意の才辯で翻弄籠絡を思ふ儘に試みた。で、小田も自由にあやつられた。聞く事毎に耳あたらしい樣な氣がして、講談でも聞く樣な心もちになり、坐ろに膝の進むをも覺えず、天晴一身を仁義のために捨てゝもよし、萬世一系たる 皇室に微忠を盡くし得るだけの名譽さへ有つに至れば男子一期の愉快であると心の底から思ひ立ツた。今にも自分が砲烟彈雨の間に飛び入りでもするやうな感憤然として扼腕して、
「振古未曾有の快事ですな、もしそれで克つやうになれば」。
「いゝや克つです。又必らず克たんければ。克たせるやうにする、それも吾々軍事探偵の腕一つでしよ」。
「あツ、實にツ」と身ぶるひして何悲しくもないが涙含む。
矢部の策をその儘用ゐて小田は矢部をば故郷から尋ねて來た妻と言ひ做し、知人の朝鮮人一同にも披露したg、誰とて怪しむものも無い。此上は新婚旅行を口實として東學黨の群れまで近づき、くはしく其實相を探らうと相談を固め、旅行の支度に掛ツた處へ不圖思ひがけぬ手がゝりを得た。といふのは尹其容といふ韓人が、かねて小田とは懇意であるので、突然と尋ねて來た事であツた。
密議したいからと小田に頼み、やがて一閑室で用向きを述べたが、豈料らんや此尹其容も東學黨の一人となツたかである。
其容は己れが東學黨に加入した事實を打ち明かすにも其相手たる小田が日本人でもあり、且常から世話好きである故その口から洩らす樣な事は無いと信じて胸臆を吐いたのである。
「小田君、あへて失禮ながら御人物を御見掛け申して御打ち明けもし、又御相談をも致すのです、己れが加入して居てその黨の非を言ふのは妙な譯ですが、實際今の儘の黨の形勢ではとても勢力を得る法は有りません、一致も何もして居ませんでね」。
「最初は皆さうです、その内いつかしツかりした首領も出來、秩序も立つので、しかし最う事を起すのも近いのですか」。
「近々ですね。と言ひながら烏合の衆でしよ、食ひかせぎのために加入して居るのも多いでしよ、坐食を永く續けれは居られません、どうしても坊どうして財物を掠めなけれは叶ひませんや」。
「が、暴動の眞の目的といふのは?」
「頑固黨と日本黨との混合ですから奇觀です。つまり頑固派は日本派を、又日本派は頑固派をおの〳〵當分の内、即ち己れの派の勢力の成るまで利用しやうと互ひに掛ツて居るのです。御承知のとほり私は純粹の開化黨、口こそ利いた事はないが、金玉均、朴泳孝の諸士とは志を同じうするもので、素より今の宮廷の大官に甘んじては居らず、と言ツて支那と結托する了簡でもなし、力さへ叶へば頑固派を東學黨部内から全然排斥し、終にまた年來の希望たる君側の姦を拂はうとは思ふのですが、只情けないかな力が足りませんので」、膝すり寄せて一段と聲をひそめ、「只暴動するのみでは實は甲斐が無いのです。武器も碌に備はらず、やがて鎮壓されゝばそれぎりで、それよりは一方に暴動を起して置いて一方に於ては最も手ばやく姦臣を殺してしまふので、さうすれば黨中の頑固派の勢力も俄然衰へてしまふです。どうでしよ」。
「されば、或ひは然うかも知れませんな。しかし姦臣を殺すといふ事が、是どうも容易には」。
「ですが、方法一つです」。
「さ、それを御相談にあがツたのです。「ダイナマイト」と言ひかけたが、偖何となく竦然とした樣子で、「あの怖るべき力をもツて――ね、すれば唯一撃」。
ダイナマイトでその樣な事を或ひは行ふかも知れぬとは矢部が現に既に小田に咄した事で、それ是思ひ合はせて小田も成る程と合點し、直ちに矢部をも紹介しやうかとも思ツたものゝ、先それも一應矢部と相談しての事と唯何氣無く聞き流して、
「うまくさへ行けばダイナマイトなら何だツて堪りませんや」。
「でしよ。處でどうしたら手に入れられましよね。御心あたりは有りませんかね。御相談と言ふのは是で、貴下は義侠の方でも有り、且又日本國にいろ〳〵の縁由が御有りで、あちらから何うかして御買ひ取り下さる事を御引き受け下さらうとも思ひましてね。外ならぬ事を御願ひ申すのですから出來るだけの金は失禮ながら差し上げますどうか國家のため御迷惑ながら、小田君、いかゞでしよ」。
「されば、買ふ手續きが、どうですかな」。口まで出かゝるを矢部は事を猶つとめて包みおさへて。
「危険物ゆゑ何れも面倒でしてね」。
「無論です」と考へ込む。
小田は尹其容を咄しなかばで待たせた儘にして、急いで別室に來て、矢部に其容の言葉をそのとほり取り次ぎ、意見を求めた。
「ダイナマイト買ひ入れの事を引き受けるのは、もとより貴下が持ツて御出でなのですから、譯も無い事ですが、さうかとて更に容易に買へるもので無し、此方に於ても萬一の際には使用する必要が有りますからな」。
矢部も些しく考へて、「一寸好都合な人物が來ましたな。仰やるとほり然う人に手離しては遣れませんが、可いでしよ引き受ける丈は引き受けて置いたら」。
「なるほど」。
「今日すぐに引き受けて今日すぐに品を渡すといふのでもなし、その間東學黨の動靜を探るに都合が好いぢや有りませんか、引き受けてやれば先方も此方を味方と思ふ、いろ〳〵の機密をも咄してくれましやうし」。
「まツたく、まつたく」と手を拍たぬばかり。「それも一策ですな、ゆツくりと利用して置いて然る後與へても遲くはありませんな」。
「さうですとも。だが、しかし、そりや一應私も面會しましよ、はいその人にさうは言ツても或ひは此方を試みる内偵かも知れませんや、疑へば先。會ツて手段を臨機に施して眞僞を確かめ、たしかな者と認められたなら、可いです手先に使ひます。怪しいと思へば又そのつもりで注意するです。どうしても會ツた方が」。
「いかにもな。私もさうとは思ひましたが、一應御相談してからと思ツて居ました。そして私の妻と言ツて御會ひなさいますか」。
「いや、わざと又さうは言ひますまい。近親のものと言ふくらゐにして置いて」
「とにかく御任せ申しましやう」。
相伴ツて其容待ちくたびれて居る處へ行ツて、是は近親のものでと小田はやがて吩附けられたとほりに矢部を其容に紹介した。
矢部も初對面の挨拶、しかもしとやかに惚々となる迄の述べ方、のみならず其言葉がすべて巧みな朝鮮語なのには少なからず其容も駭かされた。
呆氣に取られたといふ體で、韓人そのものが却ツて言句にまごついて、漸くに又初對面の辭儀を述べて、更に又、
「はなはだ失禮でございますが、御婦人の御身で韓語に御熟練なのは驚き入ります。吾々男子が却ツて御國の日本語には通ぜず、御はづかしい事で御座います。此國に永らくの間でも御居住になりましたので?」
「はい、三年ほど」。
尹其容些し烟に捲かれた心地である。ダイナマイトの買ひ入れ方を小田に頼んだ處が、その諾否を更に答へず、突然として一婦人を引き出して來た。さすればもう秘密の咄しもならぬ。否、爲るなと言はぬ計りである。散々人に秘密を打ち明けさせて置いて、玆に至ツて逸れるとは如何にも心得がたい限りである。
「尹先生」。婦人の聲ながら凛として呼びかけられた矢部の聲の内には何となしに怖ろし味が有る。
「今あちらで此小田から承はりましたが、ダイナマイトが御入用との事で」さながら詰問の語氣。
其容またはツと驚いた、自分は大秘密とする事を小田は早もう婦人などに洩らしたのかと。但しさうで無いとも言へぬ。
「は、はい、まづ其樣な事で」。
「きツとですね」と詰め寄ツて、「さらば改めて御氣の毒ながら私は貴下をば捕縛しますから」。
「ひえツ捕縛?」
「巡檢の内命で今まで貴下を偵察して居たのです。東學黨に加擔して此京城を噪がせやうとの陰謀をみづから求めて小田の所へ來てつまりは白状、證據充分さツ、繩を」。
火の玉が轉げ込んだほどの其容の驚き方、いよ〳〵呆氣に取られてしまツて見る〳〵顏の色も無い。小田と矢部とを唯等分に見くらべて居る。
捕拿すると言はれて無上に驚き、顏色まで變へて其容の呆れはてた樣で間諜でないとの事も分かツた。それ探るために搆へた威しの一策、處で正體も見えたので、忽ちに矢部は又面を和らけ、聲までも優しくした。
「あ、分かりました。御もツとも、驚きなさるのも。もう捕縛などいたしませんよ、實は御試し申して見たので、失禮ながら間諜ではないかと」。
「いえツ、私を?」其容また呆れた。
「御婦人と思ひの外、私を御ためしなさツたと? ひえツ、そのまア優しい顏で」。
「軍事探偵です」。
「誰が」。
「わたくしが」。
穴の明くほど矢部を見つめて其容は嵐のやうな太息を吐いた。
「吁、々、々おどろいた、一駭驚を喫した、御婦人で軍事探偵、吁、甘果死毒有りとは是」と不作法に口を辷らせて、さうとは自分心附かず、「すると本國の命に因ツて、軍事探偵として御渡來なので……………」
「いえ、あるひとの命によりまして、一面は軍事探偵として、又仕宜に因ツて此國の要路の大臣を要撃するつもりで」。
「あなたが?」と又目を圓くする。
「ダイナマイトと毒藥と刀、此三品が私の生命で、刀と毒とは肌身に着け、ダイナマイトは行李の中、時機さへ好くば直に行ります、命は無いと覺悟の上で大要は小田からも承り、同志の方を得た嬉しさは素より言葉で盡くせません。御買ひなさるにも及ばず、ダイナマイトなら御入用の節いつでも差し上げますが、しかし既に斯う御互ひに御打ち明けいたした上は一々よく相談して輕擧事を愆らぬやうにいたしたいものです」。
「御もつとも」の聲は異口同音、小田からも尹からも。
「事を行はうとて渡來した以上は私も實に此一身の生命は捨てゝかゝるつもりでして、よしや愆ツても日本帝國の迷惑にならぬやう、その時は直に是です」劍で咽喉切る眞似をする。
一座唯肅然となる。
「尹先生、御うたがひ申して威しをかけたのは謹んだ謝罪いたしますが、是實に已むを得ぬ用心とあしからずどうぞ思し召しを」。
「どういたしまして、どうしまして」と其容はやうやく活き回ツた樣になツて又しんみりとして
「何とも早驚き入りましたなア。えらい女丈夫が日本といふ國にはなア。御婦人で軍事探偵――振古未曾有」と獨語する。
「振古未曾有の筈だ、もとより嘘だもの、やツぱり一の男子だもの」と可笑しさを怺へて矢部は一人で腹の中。
小田は頗る得意げに、私も同志の一人なので、まづ私方に投ぜられたのですが、人々には總べて私の妻女と言ひ做してありますからその御つもりで。それで是からは萬事御相談いたしましてな、尹先生、どうか事を愆ちません樣に。ダイナマイトの事は大きに御安心になりましたろ」と打ち笑へば、
又笑ツてうなづいて、「大安心。ですが何發ほど御所持で」。
「十七發有ります。勿論藥品さへ備へれば製造する事も出來ます。それは先それで可いとして、尹先生も小田さんも御聞き下さいまし。韓國政府が吾々にどう注目するかと云ふ事を何方の御手からでも宜しうございますが、絶えず内偵いたしたいのですがね」。
「そりや御尤ですが、困ツた事には私の方には其手續きは何うもなア……」と小田は當惑顏で其容を見る。
「有ります私の手に」と其容めづらしく勢が好い。どうせ私はじめ終には注目される身とあらかじめ考へましたから此京城の巡檢の中に二人だけ狗を入れて置きました。巡檢の方針は一切手に取る如くわかります。先刻はその狗に訴人でもされ、それで貴女が私を捕縛すると言はれるのかと、夫で一方ならず驚いたので」。はじめて活々とした笑ひ顏。
「巡檢の中に狗を入れて置くとは貴下も中々拔け目が御座いませんが、それは同志のものですか」と改めて矢部は尹其容に問ふ。
「もちろん同志の者ですが、しかしつまり、金力で」と其容大に得意になツて「私に父祖から傳はツた些ばかりの資産も有りますので、その中から支出して各の狗に毎月の俸給の倍額だけを與へて居ります。又非常を知らせた時には特別に」。
「面白い、それでなければいけません。大丈夫でしよな」。
「反くまいかと仰やるンですか。そりや大丈夫反きますまい。何なら貴女が御ためし下さツても」。
思はず失笑して、「さう〳〵試してばかりも。大丈夫でしよ、その位厚遇して置けば。又試すべき機會も有ツたら試しても見ましやうが、まづ今は其儘で。何しろ丁度好い具合ひで御互ひに氣脈が通じ得られて何よりです。就ては早速ながら尹先生、貴下からその二人の巡檢に御たのみ下さツて、警務で私どもにどう着目して居るか一つ探ツていたゞきたいですな、さうでしよ小田さん」。
「至極同感に考へます、まづそれが第一です」と小田が。
「御尤もです、承知しました。其探りが必要ですからね今晩是から私宅へ二人を呼びまして、もし勸番でさへ御座いませんければ。篤とよく問ひ正して」と快く承引した。
大要の談も果てたので、再會を期して尹其容も大いに勇んで歸ツて去ツた。案じるよりも産むが易く、敵地へ入ツて案外に好い手蔓を得る事、まツたく 聖明の稜威の效す所と一途に思ひ入れば天おそろしい樣な心もちもする
その夜は一室に退き、是までの顛末の要點を一々洩らさず書き記してやがて例の如く島田絲子宛にして出し、つく〴〵と前途の事などを思ひ續けて茫然となツて居るところへ、手紙が來ましたよと先づ一聲を先に立てゝ一封の信書を持ツて主人の小田が入ツて來た。見れば偖思ひもつかぬ、さきに秋子爵の紹介により大阪で面會した彼の奈良大尉の書面なので。
「やツ、めづらしい」と封を切る。
「御存じの人ですか、使ひが待ツて居ります」。
と言ふ内に讀み了ツて、慌たゞしく返書をしたゝめ、「では小田さん、是をその使ひに。恐れ入りますね」。
「どういたして」と出て行ツた。
程無く歸ツて、「御友人ですか」。
「はア、奈良といふ大尉です。よく疾く知りました、私が此方に居るといふ事を。また何うして當地へ來て居るのですか知らん。とにかく相談も有り、面會したいから來てくれとの事で――いづれも矢張り國事に關してゞす」。
「さツぱり氣が付きませんでしたよ、然ういふ人の來て御出でのを。便船の來着ごとに誰が渡來したか直にわかりますのを。又况んやその位の資格の有る人といふのに」。
「忍んでゞも來たらしいです」。
「さうかも知れませんな。すると貴下御出でになりますか」。
「は、一寸行ツて來ましやう。今」。
「今」と鸚鵡がへしに返して、「遲うございますぜ、もう」。
「でも招かれました故。またどういふ緊急の用事が有るかも知れません」。
帶など締めなほしながら、「小田さん、御如才も有りますまいが、秘密書類の入ツたあの鞄とそれから一件とは特別に御監督下さいましてね」。
「一件とは?」心得たらしいが、猶念のためといふ體で。
「一件……ダイ……」とばかりその後のナマイトは目色でいふ。
「承知、一生懸命に。しかし氣を御つけなさい、あなたも」。
「有りがたう」。
やがて大尉方を尋ねた。譯無く尋ね當てゝ、待ちかねて居たとてすぐに席へ通され、互ひにまづ一別以來の挨拶をはツた。
大尉の室の中に軍服も軍刀も軍帽も無く、鼠色の背廣の洋服が只釘にかゝツて居る。一目したところで官命を帶びて來たのでは無いらしい。曰く有りさうだと矢部も睨んだ。
「御渡來ならば大抵わかるのですが、つひ存ぜずに――いつ頃御出でになりましたので」。
鬚ひねりながら微笑して、「一昨日です」。
「存じませんでした些しも。御公用ですか、御私用ですか」。
また微笑して、曰く言ひがたしです。御察しの程ひとへにな」。
「今も御在職は以前の鎭臺ですか」。
「いや全くの閑散の身です。過般來官は既にやめました。非職でも休職でもない、まづ免職、と思ツてその餘を御察し願ひたいのです、禪家の口吻を借りて言へば、以心傳心の御會得をな」。
「わかりました」と點頭いて、「それではもう是から萬事御自由で、前途も亦大分面白うございます。御家族は?」
「水杯して分れて、親戚へあづけて來ましたから安心です。先是からは僕も君のやうに飛び歩く事ができると思ふと愉快でなりませんや。君は劍と毒とを携へて天下を横行される、僕も是からは大小二刀と短銃一挺、はゝゝ、是からは血が友だち」とさも愉快らしく言ひ放ツて、又遽然として調子を潜め、「思ひ出しては敬服して居ます、とう〳〵李之平を殺ツて御了ひでしたな、實に巧く。あの樣は御手際で今後は僕なども宜しく御世話を受けたいです。忍んだり化けたりする事は却ツて君より僕の方がまだ素人ですからなア」。
「どういたして中々。さりながら是から爲さうといふ御事業、その大要は伺へませんが、大抵は御察し申しますが。それともやはり秘密で」。
「そりや御咄し爲やうと思ツて居るので。是でも僕は日本の本國をばまづ亡命して來た身の上でしてな、是からは、それ一件、東學黨、あいつへ身を投ずるつもりで」。
「多分その邊かと存じました」と太甚しくは駭かぬ。「日本人も些しく加はツて居る樣に噂しますな。私も金玉均の命に因ツて同黨の動靜を伺ふために渡韓した次第で、此の最寄りに同黨に加入して居る士も有り、一寸知己も出來かけました。御互ひに國家のためですから及ぶだけ私の方からも御便利を謀りましやうし、又貴下からも私どもへ」。
「もとより望む所です。ところで東學黨へ供給する兵器は南米の○○國から僕の手に因ツて差しづめ小銃五百挺だけ回附する手續きですが、僕ではまだ些しく都合のわるい所も有りますに因ツて恐れ入りますが君の御工夫でどうか御手配くざさツて、着荷早々御受け取りを願ひたいので」。
手まはしの好いには矢部も驚く。只徒らに驚くのでない、いよ〳〵戰雲が鬱勃と蒸しに蒸して舞ひ下るばかりに爲ツたと思へば、又今更のやうな氣もちがして。
「もう兵器を供給する迄に運びましたか。よもや未だそれ程にも。いよ〳〵愚圖愚圖できないぞ」と我と我を戒めるやうに言ツて、更に又乞はれた要事に心附いて、「御たのみとあらば何うにでもして受け取る事に致しましよう」。
「あらかじめ御承知でしよな、受け取り方の困難危險は」。
「もとよりです。但し荷づくりは如才無くできて居ましやうが」。
「それは嚴に吩附けて置いたのですから氣の利かぬ事も有りますまい。鐵の地金のつもりで來るです。兎に角君の御手で受け取ツて下されば實に好都合、謹んで僕一人のためのみならず、日本國のためとしても亦充分の感謝を表します好い處で君に御目に掛ツたもの、是も帝國の運命に天祐の有る事と信ずるので――どうです日本の或る地方の高等探偵で絶えず金玉均氏に尾行して、その序に君を見知ツて居ツた男が些しく過失が有ツて職を免ぜられた以來、又僕と志を同じうして一旦亡命して共に南米○○國に奔り、それから今度當國へ來て、餘所ながら流石はその道、君があの小田といふ人に居られるのを突き止めたので、それで僕から今日御呼び立て申したです、參上するのは御相談の上と思ツてまづ控へて」。
此度は矢部の方が却ツて深く驚かされて、續けざまに唯それはそれはと計り
東學黨の一人尹其容から使丁に持たせて小田宛にして來た書面を見ると、昨日御咄しをした、狗として忍ばせて置く巡檢二人の中の一人を同伴とし今夜參上するにつき其のつもりで御待ち下されたく、いろ〳〵御參考になるべき事有之候との文意であツた。
さらば又夜がたのしみである。氣味のわるい程好都合に行くものかなと、矢部をはじめ小田も胸が躍るばかりで、又小田は矢部から奈良大尉の事を聞いて更にいよ〳〵勇み立つ、その夜は又密話を聞かれまいとのようじんから韓人たる店の手代と小僧とに各小づかひ錢を與へて急に一日の賜暇をさへ許した。
果して約の如く薄暮の頃を待ちあへぬとの樣子で、尹と今一人の男とは音づれて來た。
始めて小田も矢部もその男といふのを見ると、年の頃三十四五、鬚たくましい瑰瑋な相で、もし單に外貌のみを以て評すれば、猛勇當るべからずと褒め稱へて差し支えぬ。金叔と自から名のる。
尹は矢部だちにその男を紹介して、「是が昨日御咄し申した男の一人、是又吾黨の士で决して御怪しみなさるに及ばず、充分御相談相手として下さらば、本人も面目に存じます」。
その後をば金叔みづから引き受けて一とほりの挨拶した。
矢部とても全く心つかぬといふでも無いが、此夜それから金叔の述べた所を聞いては身に思ひあたる處の有るので、一方ならぬ恐慌を感じた。
「金叔、さきほど君が僕に述べたところを更に委しく小田さんと間部さんとに御咄し申せ。くはしくだ、委しい分は厭はぬから」と其容はまづ叔を導いた。
「訥辯で御聞き苦しうございませしやうが」と金叔相應の冐頭を置いて、「間部荊子さま、又は吉田きん子さま、と御名のりになる貴女の事に就きましては當國の警務の手で既に一切の取り調べが付いて居りますのでな」。
此一語が矢部を驚かせたのも道理であツた。僞名の色々までを既に知られて居る、それも前夜尹其容に打ち明かしたなら格別、まだそれは言はぬとすれば、其容から傳へ知ツて斯う言ふのでもなし、全く警務の手で既に取り調べたに違ひ無し、さらば來た事から來た目的から、所謂箸の上げ下しまでも探り知られて居る譯である。
思へばわが心付かぬ間に昨日は既に奈良大尉付屬の探偵に認められ、今は又此警報に接する、扨も相手が鋭いのか、己れが鈍なのかと矢部疎ましい心地もする。
が、故さらに平氣を粧ツて、「さ、その位の事は既に御偵知だらうとは思ひます。いづれ日本からの通信に因ツてゞしよ」。
探りと知らずうツかり乘ツて、「御説のとほり日本國からの通知です、金先生の御手許へ忍び込んで居る洪鐘宇からの」。
扨こそと胸轟く。
「だらうとは思ひました。就ては當地で私にはどのやうな手くばりをするつもりですかな」。
「敢て手をば下し得ません、當分は。○○からの威嚇によツて當分は日本の人士に一々内偵を附して置く丈に止めて置いて――その代りいざと爲りますれば――大分背後に○國の聲援が有りますから。御目にとまりましたか當地へ御出でに爲ツて、市中に散見する一種の韓人。短い角製の烟管で烟草を<吹かして居る、多くは顴骨が高くて顏色の黒い男ども」。/p>
「氣がつきませんな」と矢部が。
「知ツてる、此頃俄かに多い――見馴れぬ………」と小田が言ふ。
眉をひそめて金叔、「御存じ、あ、あれ皆○國の浮浪の輩、その實は同國から當國へ入り込んで――勿論○○氏の命に因ツてゞすが――日本人士の擧動を偵察し、塲合ひに因ツては其命をも絶たうといふ、一種怖るべき打探者で」。
惡魔つかみ掛かる樣な心もちで、小田は呼吸も吐けぬばかりに爲ツて物も言はずに默聽する。今更矢部は流石にさわがず、
「隨分陰險きはまる詭謀ですな。露國の虚無黨そこ退けとも言ふべき、勿論東洋には古來めづらしくもありませんが。此方もそれ故その氣で應ずる、あはツ、陰險の比べツこだ」。
「まツたくです、親友が親友とのみ信じて居られません位で。さりながら彼等浮浪の輩どもは旨とする所が給料に在り、それが欲しさに勤めて居るたぐひゆゑ、太甚しく熱心に事に處するのでもありません。強ひて怖れる程でも無いかと、それ故に、私どもは思ひますが、唯々々に苦勞な一大事といふのが有るです」と金叔樣子おごそかに爲る。
一座の中で何處となく矢部にのみ貫目が有ると見えて、金叔も專ら矢部へのみ對ツて物語る状況で、
「こゝに苦勞な一大事が有るのです。それを御咄しする前に私の身の上からあらまし御咄し申しませんければ」と懷中さぐツて取り出したのは皺に爲ツた五六通の書面であツた。
「御覽の如く是皆故の尹氏雄烈君の御手書で、何を御かくし申しましやう、實は私はもと其從屬で、一方ならぬ眷顧にも預り、あの時の暴動にも亦同志となツて働らきました」。
「ふム、それでは金玉均氏とも外ならぬ關係で?」と矢部も些しく乘り込んだ。
「さよです。處が不幸にして尹雄烈氏は非業な御最期、只わが志を後に至ツてもよく繼いでくれとの一言を別れで」と語句稍鈍り鈍り來ツて、果は悵然として太息を吐いた。
「よし、一は半生の眷顧に報い、一は國家のため、及ばぬながらも回天の志士の一人たらんとし、そこで窃かに考ふる所有り、自分のみは故さらに蹈み止まツて他國へ奔らず、節を屈して假面を被り、妖鬼の如く化けおほせて、容易ならぬ機密といふ機密をば齅いて居る事、是また一の方法であると、それからは力めて其體を裝ひ、いつと無く人にも然う信用されて、終巡檢の一人たるに至り、且は内部に多少の勢力を扶植するやうになりました」。
「はじめて伺ツてはなはだ敬服、そりや中々面白い。巡檢となツて最う久しくなりますかな」。
「今年で丁度四年に爲ります。今も仰せの如く前後四方皆陰險の比べツこ、そこで私の所業も我ながら陰險の極とは考へますが、毒には毒で接せざるを得ずで、いかにも據無い事で」。
「さうですとも、詭謀を弄するのも實に已む事を得ませんよ。貴下の爲さツた事も又一法で奇妙です」。
「金玉均や朴泳孝の諸氏へすら私の聲息を知らせず、いよ〳〵是ぞと云ふ時には蹶起して御目にも掛かる所存です。唯憾むらくは巡檢の地位でしよ、政府の外交の方針を知るのは隨分まはり遠いのでしてな、前後を比較したり相互の關係などを調査したり抔して、判斷を下して居る内には變動定まらぬ外交は忽ち一變して、その判斷が時おくれに爲るやうな事が有りましてな、その度毎に殘念に感じます。と云ツて急に内機に參與すべき地位に至り得べくもなし、已むを得ずで唯我慢して居るのみです」。
「いかに御尤です、が、いたし方有りませんな。促して伺ふやうですが、氣にもなりますので――今仰やツた一大事といふのはどのやうな事で」と矢部は待ちかねたらしい語氣。
「然樣、思はず岐路に入りました。他の事でもありません、金氏と朴氏との事で」。
「玉均、泳孝の二氏ですか」。
「さやうです。洪鐘宇を御存じですか」。
「存じて居ます」。
「いかなる男と御覽になります」。さも重大な件らしく一語々々と刻んで聽く。
「人物の好否ですか。好否に就てならば殆ど言ふに忍びません。評するに言葉も有りません。單純に奸物とのみ言ひ做しては迚も言ひ盡くせぬと思ひます」。
驚いたらしい顏つきで、「たしかに然う御みとめですか」。嗟嘆して、「嗚呼、御達眼ですなア。私は又一つその事を御忠告して貴下からの御言葉で玉均泳孝諸氏をして渠が如き奸物を御遠ざけにならしめるやうにと………」
「その事です」と矢部は遮ツた。
是から自分も鐘宇を怪しいと睨み、之を近づけては毒蛇を懷にするやうなものだと呉々も玉均に忠告して終に聽かれなかツた始末を有りの儘に物語ツて、
「それ故に玉均をして鐘宇に對する志を飜さしむるといふ事は迚も最う私の手際に行きませんのです。ところで、それが一大事とは」と膝を進めて問ひかける。
「一大事になるのです、鐘宇が金、朴二氏に接近して居る内には」と重ねて金叔たしかめるやうな語氣で、「十が九までは二氏の生命は彼奴が奪ひますからな」
とは思ツて居たが、偖さう聞けばまた慄然。
「でしよな。貴下がたには早明白で、え、その事が」。
叔はさみしく微笑して、「僕は鐘宇の親友ですもの」。
「いえツ?」
「立つ時送ツてさへ行きました。柳を折ツて祖道して、洪君たしかに土産を持ツて來るだろな、と言ふと、鷄の鮮肉の脂を短刀に塗りながら、刮目して本事を見よと」。
「その費用の如きは?」
「袁閔などの手からです、而も袁は微行して送り別に臨んで斯う言ひました、くれぐれも上海の○○には十分心得させてあるからと」。
上海と聞いてぎよツとした。
「上海でどうするのです」。
「そこは夫だけ聞いたのですから解りません。さう言ツては無情ですが、早い咄しが金玉均氏が唯殺されるといふ丈なら宜しいです、延いて戰爭、是は直にです。戰爭も可いです、日本國の實力は失禮ながら今果たして如何でしやうか」。
心痛に堪へぬ體で首傾けて嗟嘆した。
「そこで開戰となツて、萬一日本が敗れる日には我大朝鮮國は一刀の下に支那の肉、開化黨は皆殺戮でしよ。痛恨に堪へんです。更に前後から推定するに、また今年あたりに日本に向ツて開戰でも無かツたらしいのです、左樣支那が。ところが金玉均が日本と結托する事ますます深く、さて又憚りなく言へば此國に對する日本の方針が軟弱、そこで在日本支那公使が北京へ傳へる報告に據れば、日本は政府と議會と絶えず衝突して官民迚も一致せぬ、今が乘ずべき好機である、と、斯うです。但し日本さへ克ツてくれゝば今日が今日開戰となツてもそりや管はぬ、否、むしろ望む處。が、それがどうでしよ。日本艦隊はまだ備はらんと言ふですしな」思案に餘ツてか調子も沈んだ。
「されば、勝負の事は何ともなア。戰爭も可いが、そりや實に苦勞なものですが、しかし其所が一つの勇氣です。盲勇と云ふか知りませんが、持重に過ぎず却ツて先んじて機を制する事が多くの例にも有りますからな」。
「まツたく勝負は前以ツてわかりませんな」。今まで默り返ツて居た小田がさも尤もらしく口を入れゝば、
尹其容もまた釣り込まれて、「金玉均の殺される事が日本の利益か不利益かな――わからんな、結果とならなくては。しかし金氏はよほど破裂即ち開戰を急
ぐ樣子だ。日本政府の武力をたしかと認めたのだろが」。
「そこが一問題だてよ」と金叔又も嘆息して、「惜しいかな金玉均氏は功名に驅られ過ぎる所が有る」。
「そりや然うだ」。
「その結果は事を起すのを急ぎたがる。現に日外の失敗もそれでだからな」。
「うム、大きに」。
「だからまだ〴〵安心のみはできないよ。ですが、矢部さん、貴下もやはり先んじて機を制する方の御意見ですか、なる程さうですかな――勿論それも得かも知れない。迷ふ、どうも私は迷ふ」。
突如として戸外に電報との呼び聲。弱味ある身の一同は其けたゝましい聲に震慄した。
たゞちに小田が出て取り次げば、矢部への宛で、差出人は例の島田絲子の名開封すればやはり暗號、もはや暗號にも熟して表と對照するにも及ばず、胸で繰る〳〵反譯すれば、
「綿火藥都合附いた故、茶の荷梱として舟で送ツた委細信書」。
差出人は玉均である。さすが一同もその用事は問ひかねたが、大方その近い所までは察した。但しまだ矢部はそれと知らせず、何氣無く嗚呼然うかとのみ言ひ流したが、大事實行の期いよ〳〵迫ると思ふ儘胸は煑え立つやうである。
京城輦轂の下に、政府の側から言へば、一群の賊徒の政府破壞の目的で日々夜々密議を凝らして居るのである。一味は主人の小田をはじめとして、矢部、奈良、大西、尹其容、金叔、金允嘉の總數すべて七人、その中で奈良は例の大尉あがり、大西はその隨行の探偵、金允嘉は金叔と同じ志を懷く巡檢の一人、古風に血を啜ツてこそは叶はなかツたが、團結の一念はきはめて堅い。
警務の當局者の前をば現に巡檢たる金叔と金允嘉とが巧みに胡魔化すので、更に嫌疑の掛る處も無い。唯矢部のみは洪鐘宇の通知により警務部内誰一人として知らぬものは無く眞先に目ざゝれる目星であツたが、その他は全く鵜目鷹目の睨みを逃れた。
巡檢の職務をもツて故さらに小田等を交はりと結び、偵察の事を行ふとの口實で日夜入り込むので、却ツて他の偵吏に對して保障を築いたやうなもので、安心此上も無い。奈良が東學黨へ供給する五百挺の小銃は無事に小田が受け取ツて東學黨の手にわたし、金玉均からの綿火藥も何の澁滯も無く矢部の手に入ツた。萬事が萬事、抜ける所無く行くので一同の勇み方、最早成ツたやうな有り樣で、いつでも來いと機の熟するのを待つのみになツた處へ突然として耳を襞く一警報、いよ〳〵東學黨は蜂起して群衙を襲撃したとの事。
それから其勢の猖獗なのを頻々報じ來る報告は巡檢二人の手から洩れるので矢部等一同逸早く知る、そしてその電報は一々島田絲子の許へ暗號で筒拔けになる。
食ひつめ壯士のやうな一團體がが矢部等と同樣の目的をもツて京仁間を徘徊して居たのも他に有ツたが、金も無ければ高等の傳手も無く、矢部の團體ほど機敏には立ち至らなかツた。
一室に矢部が籠ツて居る所へ、入ツても宜しいかと聞いて、やがて允されて入り來ツたのは例の巡檢金叔であツた。額からぽた〳〵滴る汗を拭ひもあへず
「非常の暑さだ、めツきり暑い。日本から始めて御渡來では嘸御あついでしよな」。
「暑うございますな」と矢部は重くるしく言ふ。
叔は重ねてそれに應ぜず、膝を進めて小聲になツて、「事實です、あの事は。今電報をも見ました、もう近日上海へ……………」
「えツ、金玉均氏が やツぱり洪鐘宇と?」
「鐘宇からの通知がたしかに或る筋へ來ました。金氏かならず日本を去るです」
「全くですな?」
「全くです。驚いて御知らせに來ましたので」。
稍しばらく矢部は瞑目して居た。やがて其目を開くと共にさも痛歎に堪へぬ樣子で、
「ちツ、情無い事だな、じツつに。あ、淺ましい、まだ瞞されて――無殘や金先生の運命も。金叔先生は御察し下さい、僕があれ程又忠告書をも送ツたのに吁うらめしい、情無い、駄目、々々、駄目ツ。だが殘念だなア」と浩歎した。
「殘念ですな實に。殺されると知らぬとは――いゝや忠告されても覺らぬとはなア。どうも仕樣が無いですなア。電報ぐらゐで言ツて遣ツても肯きますまいしな……………」
「魑魅に魅入られたとは此事。困ツた、實に困ツた。どうしたら此際應急の處置が附かうか知らん。金先生が死んでも開戰となる、死なずとも開戰となる、十の九までは海戰がたしかであるところで、何も好んで殺される事は無い。金叔先生、私は何ともはや手段に盡きましたて。腹も立ツてなア。愚痴もまた言ひたくなる。人が是程迄に思ふのを、而も馬鹿な人でも無い癖に。すると、鐘宇が上海から歸ツて、更に金先生と同伴して渡るといふのですな」。
「上海から歸ツたのやらそれとも全く行かなかツたのやら、何しろ今現に金氏の許に居るのです電報で一兩日中に立つと知らせて來た程ですから遲くも四五日中には」。
「間に合ひませんな、是から急いで駈け戻ツても」と力無さゝうに言ツて、その儘しばらく瞑目して、「吁、もう實に已むを得ん。盡くすだけは私も遺憾無く盡くしたつもり、それでも及ばずば更に又如何とも。だが、しかし、うム」と小膝を拍ツた。
「何か御工夫でも」。
「及ばぬまでも試みましやう。秋子爵といふへ當てゝ出發差し止めの儀を懇請する一電報を。金先生にその人は重きを爲す人ですから」。
「好手段、ことに重々しく言ひやるのですな」。
「さよです」。
直ちに電文起草した、上海は金氏に取ツて危いから是非とも出發を差し止めてくれ、同地では暗殺の手配すでに全備して居るとの旨で。金叔みづから局へ走ツて急に打電させた。
が、玉均の命の窮まツた所か、その電信も終に無効で、擦れちがひに早出發して了ツた後で、秋子爵の手に入ツた。
越えて幾日でも無い、いよ〳〵戰爭の幕を開くべき大切の日とは爲ツた。電報により秋子爵は強ひて玉均をして上海渡航の念を絶たしめたが、それしも猶肯かず行ツてしまツたか、まだ分からず矢部はじめ一同空想でのみ量ツて居る。
いつもより猶蒸し暑い夕がた、明日の油照りを前以ツて知らせ顏な夕照が山の端の斜角を掠めて、風もわたらぬ林樾はさながら茹で殺されて動きも得やらぬやうに見ゑる。蒸されてはいとゞ此地特有の臭氣が何と形容もならぬ具合ひで鼻を衝いて、些しくは住み慣れた身にも岑々と頭痛を覺えるほどである。暑い、くるしいとは誰も皆異口同音、今日の日中は今年はじめて蝋燭が流れ出したと言へば、聞くものも左して怪しみもせず、さうだろ今日位の暑さならばと澄まして居る。
せめては夜凉で一日の暑熱の取りかへしを爲やうと誰も彼も暮れ行くをのみ樂しみにして居るところへ、俄然市中は噪がしくなツて。巡檢は全員を盡くして出たかと思はれる位、あちこちを歩きまはる、その歩き方が急ぎ足なのも何かとくべつな非常でもあツたらしく見えると思ふ内に、ちらりほらりと武裝の兵丁があらはれ初めるやうに爲ツた。
變だ、妙だとは萬口一齊、いづれも變亂の萌しでも有ツての事か位には愆たぬ想像をする。うろたへては戰爭でも起ツたやうに傳へるのも有り、傳へられるのも有る。「何事かね。宮中に異變でも有ツたのかね」。「さやうさ、王妃を刺さうとした奴が有ツたとか」。「王妃を刺してどうする」。「どうするか俺知るもンか」。「さうぢや無いとさ、破裂彈抛げた奴が有ツたとか」。「何處で、何のために」。「何處で何のためだか俺知るもンか」。「ちがふ、皆ちがふ」。「どうしたんだ」。「戰爭だとさ」。「どの國で」。「それ俺知るもンか」。
餘所から小田は慌たゞしく歸へて來た。
「おツ、矢部さん、御心づきですか、市中の樣子がどうも異常で」。
「氣が付いてます。迚も凡事では。近所に東學黨でも起ツたのでしよか」。
「それにしては砲撃の音も聞えずな。怪しいと見ると人を誰何する模樣です」。
「はてな」。
門口にちらりと正裝巡檢の影。と思ふ内つか〳〵と入り來ツたのは例の金叔蒼さめ切つた顏。又うろたへ氣味。
「矢、矢部さん、大變。破れた。貴下の身が危ふい。ちツ、百事皆挫折」。
矢部また愕然。「何、何として」。
「殺られましたツ、洪鐘宇に」。
「いえツ、金氏が?」
「け、今朝の事、客舍で、上海の――短銃で、それで即死。それから急電でしてな、あのとほり城中が俄の警戒」。
しばらくは矢部も小田も眼を見合はせるのみである。
「よわツたなア」。程過ぎて矢部が此語を洩らした語勢は全でぐた〳〵で力が無い。
「嗚呼、終に及ばなかツたかなア。上海の客舍で、短銃で――吁、豫言が的中したかなア。人の言ふ事を切めて肯いてくれたなら――吁、殘………無念な事をツ」。今は早たまりかねて涙潜然として咽び入る。
「眞電だらうな。僞、僞電でゞもあつたらばとも思ふ――ちツ、親とも思ふ金先生、私は、私は敢て私の説を容れられなかツた先生の無情を怨みますよツ」と又泣く。
金叔目をうるほし乍ら、きツとして、「しかし矢部さん、そんな事言ツて居る塲合ひでは。學ぶべからず婦人の痴をだ。政府部内は上を下との混雜、在留の疑はしい日本人は事に因ツて殺すとの事」。
「何、殺す?」
「警務で貴下には第一に目を」。
「おもしろい、殺される位何でもない。此處で死ねば國家のため、命が一つの益に立つ」。
けたゝましくどたばたと音させて駈け込んで來たのは奈良、大西の二人であツた。
「矢部さん、金玉均氏は殺………聞きましたか」と奈良が。
「聞きました、今。あなたは何處から」。
「支那から直電で。今その發信人を説明する猶豫は有りません。御相談、どうです今夜是を機に官舍破壞を企てたら」。
「しツ、しづかに」と大西が注意を與へる。
奈良は意氣軒昂、「政府は大混雜、巡檢はまごついて居る、それで足許から破裂彈「金氏の仇を一人でも早く復してやる――愉快でさ。どうせ斯うなツたら最うはじまる戰爭、濡れぬさきこそ露をも厭へだ」。
矢部はむしろ落ち着いて、「それよりも私の身がもう狙はれて居るさうでさ」。
「誰から、政府から?」
「金氏の一味ゆゑ眞先に殺してしまへと」。と。「むム、殺してしまへとな? 畜生ツ、ふツてエ事を。おツ、此金叔君がさう言ふのでか。馬鹿、今殺されてたまるもンか。先んずれば、人を制すだ。そんなら猶の事、こツちやから」。
「矢部さん、どういふ事です」。言葉は解らぬが、奈良の見脉の凄――いまじさに金叔横から口を入れた。
しか〴〵と通辯すれば、
両手を掉ツて、「そりや無謀無益の策。警戒が嚴が嚴になツて居るのですものそも〳〵何の奏功が」。
「こりや至當の言だ」と小田が同ずる。
「のみならず」と金叔は語をつゞけて、「警務の表向きは僕と金允嘉とが矢部君を搦め捕るとの事を故さらに受け合ツてあるので油斷して居るのです」。
不圖矢部氣が注けば、まだ尹其容が來ぬ。
「おツ、まだ尹君が見えませんな」。
「さうだツけ、言ふのを忘れた。同君の身の大いに危ふいのです。それから金允嘉が保護して今がた三角山の方へ迯がしました。矢部さん、それほどですぞ、决して輕擧して事を愆るべき時でもなければ、又漫に死を急ぐ秋でもないです迯げるが却ツて男子。そツでしよ、小田さん」。
「大贊成、何も狼狽するのみが能でない。こりや矢部さん、金氏の説に從ひなさい」。
「矢部先生の生命は刻々と細り行くです。かうして居る内も氣が氣でない」と金叔ひとり踠きさわぐ。
小田から又云々と奈良に通辯したので、奈良も大いに然うとも思ツた。
「さう聞けば大きに尤も、それぢや今夜は爆裂彈さわぎは先見合はせとして置いて、扨矢部君の一身だ、迯がすとしても此姿では人目についてばかり仕舞ツてなア。矢部君、御考へはどうですな」奈良は意見を促した。
此間矢部は默然として可否何れとも斷言せず、苦り切ツて沈思のみして居た奈良に意見を促されて、さも是非無いといふ調子で、「痛歎の至りと云ふよりは私は吐く語を一つも……………
奈良は半ばで、「そんな事ばかり言ツて居ツたとて――一身の安危の塲合ひ君にも似合はぬ。迯げなさい一刻も速に。金叔氏の好意空にすべからずだ。しかし吾々は未だ迯げずとも大丈夫なンでしよな」。
「大丈夫ださうです」と小田がたしかめる。
「どうしたですか、矢部さん」と金叔些しくぢれ込んで、「すみやかに决心なさらんければ萬事休す、折角の苦辛も水の泡、私は貴下のためどの位苦心するか」
决然として、「從ひます御意見に」。
「迯げなさるか」。小田と金叔とが相共に。
金叔語を續ぎ、「迯げるさへも難いくらゐ、此女裝では。そこで考へましたが大形の支那鞄、あの中へ入ツて荷物の振りして胡魔化すより外は――大形のが有りましよか」。
矢部と小田とは目を見合はせた。
「何です」と奈良が問へば、又云々と小田が通ずる。
「丁度可い、僕の處に大形一番のが有ります、そんなら彼で間に合はせる事にして、しかし隨分くるしいな、氣孔は是非開けるにしたところが」。言ひさして奈良は些しく考へ、「船へ積むに檢査されまいか知らん」。
「されますなア」と小田は當惑顏。
「或ひは檢査されるか知れません。全くそれが困るので」と金叔もまた思案顏。
「昔の小説にあるやうに」と小田が口を入れた。「まさか人間が鞄の中へ入ツて行かれもしますまい。よし行かれたところが、今奈良さんが言はれるとほり船へ積む時に檢査でもされゝば、もう仕樣が有りませんや。それより我輩は斯う思うです、いツそ女裝をすツぱり男裝に改めてしまツて、元山津の方へでも迯げるやうにしたら却ツて安全だらうかと、どうです金叔さん」。
「男裝にするとは――矢部さんの此頭は――髮の毛も、さうなら短くしなければ爲りますまい、そして朝鮮人すがたにですか、日本人すがたですか。今折角長いこの髮の毛を截ツたら容易に伸びず………さうでしよ、矢部さん」。
「伸びませんとも容易には。さうして了へば當分女裝は出來ません。勿論もう餘り知られて了たツから是からは男裝に變はツても可いのですけれども」と猶决しかねた顏。
小田は肯かず、「截ツた方が可いです、もう今日と爲ツては。それに此とほり矢部さんは朝鮮語に熟通して居られるのですものを、今後男裝の朝鮮人と姿を變ずれば、却ツて目に立たんで便利でしよ」。
「それも一理有りますな」と金叔も些しく折れた。小首かたむけて考へて、「さうすりや當國を去ツて日本へ迯げるにも及ばない」。
「あはゝ、それもそうだ」と小田は失笑す。
「なる程いツそ夫も妙策かも知れない」と此度は奈良が中に這入ツた。「僕は又かう云ふ事をも考へて居ました。鞄に潜んで船に積まれやうとすれば檢査される、どうしたら夫を免がれるかと言ふに、隨分苦肉の策ではあるが、其鞄をば日本公使舘又は領事舘の荷物とし、僞造した公使舘の封印を行ツて、大膽に積ませる、ね、公使の荷物は一國の神聖と秘密とを破らぬために開封して檢査するものでないですからな」。
「はア、なるほど」と小田は苦笑ひして、「それにしろ封印を僞造するといふのが急の事には」。
「必要の塲合ひが有るかと思ツて、既に僕はあらかじめ調製して渡來して居るのです」。
「御手まはしの快い、それは〳〵。ですが、それよりも今私の申す策の方が却ツて安全で利益有りましやう」。
「さうです。今のは唯斯う考へたと御咄しゝ丈に止まるので、今の御意見は誠に可いと思ひます。矢部君、それが可いでしよ」。
「九時過ぎましたツ」と金叔叱るやうに云ひだした。
終にその議に一决し、こゝに俄に思ひもかけず、その多年養ひ伸ばし蓄へた翠の黒髮を截りちゞめて短くする事に爲ツた。正に是亡夫に對して操を立てゝ尼の身となるかの心もち、婦人の身でなくても殘りをしさ一とほりで無い。
「髮を修するのは拙者の得意」と金叔笑ツて鋏刀を把ツた。女々しいとは思ひながらも未練、是を見をさめと鏡に向かツてつく〴〵と眺めれば我外に又なつかしい玉均の影も浮かぶ。吁、この髮を斯う結はせた人、かう結はせて悦んだ人、その人は今はや客舍に慘死を遂げてしまツて、今や我もまた其紀念とも見られる髮に別れと爲る。さりながらそれとても又皇國のため、献身の慈善、博愛の義侠、それらをば口にもし、腦にも刻み込んだ身が此處で諦めぬといふ法は無い、何の、々々、髮ぐらゐ。
金叔は手早く截る、むしろ未練をも速やかに残すさなくなれかしと急ぐ。忽ちにして見ちがへるばかりの恰好、朝鮮風にざツと束ねて、「出來た、どうか斯うか氣が急いてどうにもならない。それからして着服だ」。
「おツと可し、出しました。是ならば大抵適ひましよ」と小田は發議者だけまめ〳〵しく一領の被服と帽子とを出して、金叔と二人寄ツてたかツて、相助けて着せてやる。
「うまい、〳〵もう何う見ても韓人だ。それには又韓語はやれるしなア」と奈良は激賞殆ど措かない。
「矢部さん」と金叔いよ〳〵急き込んで、「何方へ行きます。さう爲ツたら却ツて日本へ行かずとも可し、又もう港は嚴重に警戒が附くいて居ますし、東學黨へでも投じますか。私は歸ツて上官に虚言を述べて置きます、即ち風を食ツて逃走し、仁川邊へ向かツた形跡が有ると言ツて、探偵の方針をその方へ向けさせます。そのつもりで。それぢや早く、一刻も――此塲合ひつまらぬ打ち合はせなど愚圖々々して居ては大事去ツて仕舞ひます」。
女裝の軍事探偵矢部道任の影は烟の如く消えて了ツたが、一個韓人と見える男裝の矢部道任の身は依然として朝鮮の各地をさまよふて居る。風雲の險惡一日一日と迫りに迫ツて、やがて大鳥公使の入城となり、始めて京城に銃聲を聞き碧血を見るに至り、引き續いて牙山、成歡の陸戰となり、豐島の海戰ともなツたが、その間矢部の踪跡は更に些しも分からず、從ツて又國事に何を盡くしたといふ事も聞えなかツた、只そこらに出沒するといふ丈で。
内外ともに神洲臣民の意氣が團結一致して連戰連勝の喜びを見ることを得、いざや此上は天下分け目とも云ふべき平壤の合戰を待つばかりと爲ツた。此一戰の勝敗は吾に取ツても彼に取ツても容易ならぬ影響を及ぼすといふので、雙方の將士の意氣込みは一とほりで無く、吾は勝を續けやうと望み、彼は敗を取りかへさうと思ふ、從ツて支那軍の防備もまた一方で無く、巴山や鳳山の邊までも兵はあちこちに散らされて、怪しいものと見れば容赦無く引ツ捕へて問ひ質す。問ひ質すといふよりは責めさいなむ、正式に糾彈するといふよりは寧ろ無法に責め殺す。無辜の朝鮮人の哀れさ、口にするさへ忍ばれぬ程で、餘所の喧嘩を無理やりに持ち込まれ、土地を荒され、墳墓を毀され、生命財産を掠奪されて、此世からの地獄の責め。さりとて迯げたとて何里迯げられたものでなし、五里か十里の附近をうろ〳〵して居る内には又酷たらしい目に逢ふ、寄るとさはると扨無理でも無い怨嗟の聲。
大同江畔、廣州に屬する土地に載寧といふ所が有る。南の方から亂を避けて奔竄して來る朝鮮人の多數此四五日には引きも切らず、口々に罵りわめいて宛がら火事塲のやうな噪ぎ。妙に仕合はせしたのは其棒鼻にあツた一軒の煑賣り酒屋で、その賣れるは〳〵、目のまはるほどの忙がしさで、忽ちの内に代物を賣り盡くしてしまツて、それで又戰地の事とて更に仕入れる事は出來ず、一兩日は客にもその由辯解して只湯だけを賣ツて居た。
今日も店さきに四五人が群集してがや〳〵言ひ罵ツて居る。行く先の路の案内を尋ねるのでなければ、戰爭の愚痴をこぼすのみである中で、商人風の、五十恰好の、義州訛りは有るが辯は達者な男が際立ツてよくしやべる。
「私や義州だが、困ツたてよ、もう一抔の支那兵だらうから。と言ツて女房子も有る、歸らない譯には行かず、その道筋ぢやきツと何がしか宛支那兵に賄賂出さなけりや爲らず、ありまり慾張らないで、早く此春ごろ京城を立ツて來りやよかツた」。
聞きもせぬ事まで一人でしやべツて、やがて吾傍に同じく腰をかけて居た廿四五の一人の小商人を見かへツて、
「御前さんは、何ですかい、迯げなさるのでもないンですかい」。
問はれてその男は微笑した。
「いえ、わざ〴〵來ましたので」。
「わざ〴〵ですツて? 何、何に?」
「慾張ツてゞす。烟草を廉うく仕入れましてね、それから支那兵へ賣る目論見で。かれ是もう駐屯地でしやうから」。
顏をしかめて、「駄目、大駄目。どうして御前さん支那兵が代を拂ふもンですか。無理に代をくれろと言へば、直に斬られる位のもの、命を賣りに來なさるやうなもンでさ。何ぼ代物が烟草だツて命まで烟にしちや駄目だ。あツはツはツ」。
思ふに讀者も大方は推知の事、この烟草商人といふのが即ち例の矢部であツた。
義州の商人は眞實忠告するつもりで、「本當にわるい事は言ひませんや、御よしなさい支那兵に物を賣るのは。只取られて事によると生命まであぶない、こんな詰まらない事は有りませんよ」。
「仰やるとほりですね、みんな盜賊同樣ですからね」とその家の主人が雷同する。
矢部はいよ〳〵微笑して、「御深切有り難うございますよ。牙山や成歡の邊でも賣ツて見やうとしてつい間に合はず、それから此方へ來ましたンですが、そんなに支那兵は太うございましよか」。
「そりや咄しにやなりませんとも」。
些しく當惑といふ體で、「困ツたなア、遠くから遣ツて來て。此儘引ツ返すも馬鹿々々しいし、さうかと言ツて相手のわるいのも素より不好だし…………
「よツぽど遠くからですかい」。
「延安府です、さやう、黄海道の」。
「やれ〳〵遠くから御苦勞さまだ。延安府と」と考へて、「京城言葉ですね、延安訛りは有りませんね」。
稍ぎよツとして、「勿論永らく京城に居りましたから。ですが、支那兵は此さき近くに居りますか、何里ほどの所まで」と急に話抦を横へと轉じて。
主人の老爺心得顏に、「十日計り前に此邊にも見えましたツけ。人の咄しぢや何でも川むかふは一杯ださうで――さやうさ、保山あたりは澤山居ましよ。それはさうと烟草屋さん、折角だから支那兵と代はツて私すこし烟草を買ひましやうわ。その代はり大負けに負けてね」。
「ありがたい、買ツて下さるか。それでも商ひさへすりや心もちは濟む、負けますとも」。
「廉ければ私も買ふ」。
例の義州者も買へば居合はす一同も釣り込まれて己も吾もと買ふ。利得かまはずの賣り方、その廉いのは無理もない。
「まツたく大負けですよ」。
「廉い。どうか始終かういふ烟草屋さんから買ひたいな、あツはツは、勿論支那兵に取られたと思や――私たちは支那兵のやうに只取りはしないから」。
ぬツと店さきへ現はれたのは武裝した二人の支那兵であツた。二人とも顴骨隆く、眼が釣り上がツて、見るからか獰惡きはまる相好、あたり睨めまはして姑らく衝ツ立ツて居る。薄氣味がわるいので、誰も彼もひたりと默ツて、殆ど息を殺さぬばかり。
開けた儘の烟草の荷に支那兵どもは目を着けて、片言の朝鮮語で此烟草いくらだと、僅に儀式だけに尋ねて、やがて銅貨一枚抛げ出して、三個四個鷲づかみにした。すはや掠奪が始まツた、哀れ、言はぬ事か、飛んだ奴に見付かツたと、言ひ合はさないが一同は腹の中、扨烟草屋はどうするかとやはり無言で眺めて居る。
矢部は噪がない。微笑して猶二つ三つ取り上げて更に支那兵の手にわたし、出された銅貨をも返却し、さて今日からが豫ねてより修めた支那語の實地の應用試驗、物しづかに、
「旦那方には是から色々御贔屓になツて御用を仰せつかりとうございますから、今日だけの所は進上いたします」。
貰ふほど結搆な事はない。支那兵その獰惡の相好が忽ちとろけて崩れかゝツて、
「澤山に、ほム呉れるのか、忝無い。すると是から營所の方へ賣りに來るのか」。
「さやうにございます。どうぞ旦那方から御取り做しで、大官人がた御一同に御買ひ下さいますやう――その代はり旦那方にだけは毎日二袋づゝ無代で差し上げます」。
「はて面白いわい、無代で飮めるとは。吾々にさうするなら友人へも吹聽して買はせてやろ。それらには些し高く賣れ」。
「有り難うございますが、まさかに高くは……………」
「いゝや、さうして置いて、我々のを四袋づゝ」。
支那氣質の地金を出すぞと肚で笑ツて盲從して、「さよならばそれでも」。
「可いか、可し。今日貰ツたのはその數に入れるのぢや固より無いのだな」。
「はい、〳〵」。
「すると明日から四袋づゝ。乃公が三袋飮んで一袋は友人に賣、その時烟草屋の賣り値が高ければ高いほど乃公の飮み殘しも高く賣れて、乃公も金になる」
矢部はほと〳〵呆れて居る。
「折角もらツた烟草だ、君、どうだ賞翫しやうぢやないか。丁度好いわ、此處で休んで行くには。いくら巡邏の命を帶びて居るからとてさう歩いてばかりも居られやせん」と其支那兵の一人が店さきへどツかりと腰を掛けると、その近くの朝鮮人どもはずる〳〵と避けて遙かの方へ離れてしまツた。
「休息しても大丈夫だろの」と一人は稍心配氣に。
「何が大丈夫? 何か、うム、監檢に糾彈されはせんかと云ふのか。馬鹿言ふな百總が既に我黨の士しやないか」。肩ゆるがせて淋しく笑へば、
同じく微笑で受け取ツて、「折花攀柳の勞を多としてかな?」と言ひながら是また腰をかける。
矢部は此所ぞと乘り出して、「百總閣下は何とおツしやる方でございます」。
「張翼」と云ツて粹な人だ。監軍の李朴といふ人の御氣に入りでの」。
李朴、その一語は容易ならぬ響きを矢部の胸に與へた。本國から脱籍して支那の兵部にもぐり込み、劉將軍などに重く用ゐられて居る李朴その人、その人が今又平壤而も此わたりに一方の將として偖は出陣して居るか。なつかしくもある。更に言ふは言はれぬほど嬉しくもある。〆めたぞ、防備の秘密はもう知れたぞ。腹の中をば色にも見せず、「どうか其百總閣下、および監軍閣下からも御用仰せ付け下さるやう御取り料らひ願ひ上げます。今仰やいましたが折花攀柳とやら、何かその樣な事でもございますのですか」。
「あはツ」と聲高に笑ツて、「大有りさ。百總閣下張大人は美丈夫での、此國の肅川(郡名))の一美少婦に戀着せられての、招かずして蝶から花を趕ふたのだ」。
「そこを月氷となツたのは此阿哥さ」と一方のがさも仰山に笑ツて言ふ。
「陣に、それで、從ふのですか、その美少婦が」。
「もちろんとも。大官は皆然りさ。啼紅羞白唯命にこれ從ふのだ、ねエ、碼霰劍花の間おのづから風流情事の消息の有る事、大國の武將の胸中おのづから綽綽たる處だ」。
「あなた方は?」と矢部失笑す。
びたり額を音よく敲いて、「銀錢只有りわが心事を知るだ。銀錢のために働らくのだ、それを見あてに兵勇とか何とか、誰とても生命は惜しいやな」。
「と言ツても戰地へ臨んだ以上」はと矢部は呆れて苦わらひ。
「それは運さ」と言ひなぐツて、忽ち後ろを見かへツて、「おい、酒くれんか、何でも可い」。
「御氣の毒ですが」と亭主揉み手をして、「皆賣り盡くしまして一滴も」。
「無い?」と目をすゑて、にやりと笑ツて、「しこたま金に付いたの、それぢやうんにや烟草屋、貴樣韓人で、よく中國の語をしやべれるの。中國に居た事でも有るか」。
「はい、一年ほど牛莊に」。
「さうか、奉公でもしてか。何でも宜しい、きツと明日から烟草をよこすの。間ちがひ有るまいな。乃公達は是から巡視に出掛けるが建寧から川向ふ、保山のすこし此方に營寨が有る、そこで百總張翼大人の麾下で、陳休と言ツて尋ねて來い、明日は必ず。きツと儲けさせてやる」。
「や、どうも色々有り難うございます。是非とも明日は御尋ね申します。しかし貴下さまは?」と如才無く今一人の名をも問へば、
「同姓で陳珀珉といふのだ」。
手帳を出して書き附ける途端、貰ツた故か二人とも機嫌よく、さよならとさへ言葉を遺して大人しく出て行ツた、後影を見送ツて一同はほツと呼吸。矢部の清語に通ずるのや、只烟草をやツたのや、それ是を珍らしさうに稱贊してがや〳〵と又饒舌り立てゝ居るところへ、忽然として陳休ひとり立ち歸ツた。
「烟草屋、些し咄しが有る」。
「へ、何の御用で?」
「此處では言へない。ともかくも乃公と一所に來い」。
「どちらへ」。
「何處でも可い。行けばわかる。しかし苦勞するほどの事ではない。すぐ其處までだ」。
矢部はもとより腹をすゑて居たが、事の吉凶如何を料りかねて一同は窃かに矢部のために苦心する。
載寧の西郊、監生娘々をまつツた支那風の祠が有る。監生娘々とは支那で主に祀る子安の神で、安産を祈れば驗が有るとの口傳、いつ誰が移し祀ツたか、此載寧の西郊に五六百坪ほどの境内をかまへさせ、松の老樹が生ひしげツて一劃の靈區となツて居る。咲きをはツた紫陽花の葉が特に目に立つほど大きく、その緑色も艷々として、葉だけでも充分眺めるに堪へる程なのが境内の殆ど三分の一を占めて思ひの儘にはびこツて居た。祠はいはゆる辻堂といふたぐひで、守る人も無く、日暮からは參詣の人も全く無い故一個寂寥たる區域と爲ツて、そろ〳〵稼ぎに出る蝙蝠の勢ぞろひでもはじまりさうである。
その祠の椽に腰稍打ちかけた二人の男、その一人は僞烟草屋たり、又僞朝鮮人たる矢部道任で、それから張翼の手に從ツて、保山から載寧方面を警戒する任務を有する彼の陳休である。
「此處ならば閑談によろしい。落ち着いて咄しをしても差しつかへ無い。早速用談に取りかゝるが、煙草屋貴樣は行商か」。すこぶる氣味わるい問ひである。
「恐れ入りますが、大清國の大官人を目的として御陣に烟草を供したてまつるつもりで參りました、延安からわざ〳〵」。
問はれる先をくゞツて出立した起點をさへ述べた。
「ふム」とうなづいて、「大に勇氣有る男だの。烟草は澤山用意したか。なるほど、そんなに澤山でもないとな? しかし斯うして戰地に入り込む以上は可なりの盤纏を持ツてるだらうの」。
「金子でございますか。金子はあまり……………」
冷笑して、「あまり……些しは有るの。無心だが、有るなら出來るだけ貸して貰ひたい。いやさ、驚くかも知れんが見かけて頼む。實は迫ツた事が有るので」
支那兵の言ひ草としては怪しむにも足らぬ。但し斯う切り出される迄には斯う伴はれたのも或ひは軍事探偵とでも認めて問ひたゞすつまりでであるのかとも思ツた。案外、のやうで又案外でも無い、支那兵有りがちの金の無心と來ては今更驚くにも及ばず、むしろ乘ずべき好夤縁、大に利用すべき所も有らうと矢部は極めて輕く聞き取る。
「なるほど、御用と言ふのは其事ですか」。わざと慚ぢしめるやうに言へば、
流石にきまり惡さうに、「實は大袈裟過ぎたのさ乃公とても命を正鵠にかけて兵勇の身となりたくもない。さき程も言ふとほり單に銀錢のためさ。倭國克たうが中國負けやうが、吾に於いて何か有らんだ」。薄さみしく笑みかけて、「二世と契ツた少艾が有る。教坊では無比の名花で、情緒纏綿こゝに一念、彼は一富豪に落籍されるといふのを乃公に情を寄せて、憐れむべし柔荑の身が能く其請ひを退け、その富豪が商賈であるところから、兒は射利の徒を好まず、屍を馬革に裹む意氣有るものに非ざればと斯う言ツての、毅然として節を守るのだ」。
御自惚ですなと言ひたいのを辛く忍んで笑顏をつくツて、「健羨に堪へるられませんな」。
笑みとろけて、落籍の花費が幾十兩、わかツてるだろ、積もツても」。
「されば」。
「さればとは君も無情だ。まづ須らく打算したまへ。兵勇となツたのもその故だ。一は屍を馬革に裹む勇氣を示し、一は落籍の本錢を作るため、まづ一擧兩得だ」。
「はてな、兵勇となツて、それ程の本錢が出來るものですかな」。とぼけて問へば、
眞面目になツて、「打劫さ、擄掠さ、槍奪さ。營の字を威しにして財物を奪ふのさ。あはゝゝ、打ち明けて貴樣には言ふのだ、察したまへ。艷思は相ゆづらぬ此所は娘々の廟域で、此の如き事を求めるのも因縁ありだ。その代はり又貴樣のためにも盡くす。貴樣から借りたのを是までに貯へたのと併せて、彼をして落籍せしむるに足る事となれば明日とも言はず跑脱する、いやさ貴樣に盡くすだけは盡くして置いて。阿嬌の居る所までは是で隨分里程が有る――え、蘄さ――湖北省のでない、安徽のさ、安徽の鳳陽府の南三十六里をへだてたところの」。
わが情婦の所在まで言ふ、是が戰陣に出て居る兵勇かと矢部今更のやうに呆れて居る。
折角の思しめしですから出來るだけの所を御用立ても致しましやうが、全體どのくらゐお入り用なのですか」と案外安らかに矢部に折れて出られて、
陳休すこしくもぢ〳〵して、「多謝。しかし幾何できる」。
「貧弱の行商ですから迚も御滿足する程では」。
「どうだ、四五十元」。
「その位なら」。
「ほツ、叶ふか。えらい、有り難い、はなはだ忝い。今でも直?」
「よろしうございます。さりながら、何と物は御相談、金もうけの一方が有りますのですな、もし大官が專心この貧商と協力して事に當たツて下さらば、利殖疑ひ無い事で。どうして其利は四五十元は」。
利殖と聞いて身を入り込ませて、「面白いな、どんな事で」。
「御協力下さるならば御咄しゝます」。
「僕にできる事ですかい」と早言葉までが改まる。
「出來ますとも」。
飛び離れた趣向を俄に矢部は思ひ附いたのである。半分は面白半分、うまく行ツたら御なぐさみと又此陳休を手玉に取らうとしはじめた。
言葉つきをも屹とさせて、「何を御隱し申さう、烟草賣ツた位の小利を誰が目的として、危い戰地へ踏み込みますか。一攫千金といふつもりでこそ」。
「いえツ?」
「されば大儲けするつもりで。全く協力なさいますか」。
「危いのではないですかい」。
「更に些しも」。
「おもしろいな」。
「豬が居ましよ、この載寧にも澤山、いづれも銘々の家で畜ツて」。
陳休大に意外な顏つき。めづらしくも無いといふ樣子で「へエ、それが何うしました」。
「その豚と此土地の迷想とを土臺として、それ丈では御わかりに爲りますまいがね、御氣は附きましたか此土地に純黒な豬が一頭も居らんのを」。
「さうですかな、氣が附きませんな」といよ〳〵意外と思ふ樣子で、「奇妙不思議な事を調べたもンですなア。純黒な豬が居らん、それで金が儲かる――僕だちの故國には純黒なのがいくらも居るが――あはツ、貧乏人はそれで多いか」。
「冗談ぢやない、金まうけで」。
「まツたくだ、冗談ぢやない、金まうけ。黒豬が居らんで一攫千金――仕入れてゞも賣るンですか」。
「どうして此土地に黒豬が居らんかと言ふ譯を御存じですか。知りませんか。黒豬は妖魔ですとさ、此土地の者の言ふには。それで畜はない。黒豬ほど不祥なものは無いとする。ところで其迷想を本とし、黒豬を利用して一番大儲けしやうと云ふのです」。
「待ち遠しい。はやく言ツて下されな。胸がもうどき〳〵する」。
「引き受けて貴下は爲さるか」。
「くどい。危い事でさへ無い以上は」。
「宜しい。そこで今御無心の四五十元の金は?」
「さればなア」。
「黒豬で、いやと言ふ程儲かりますぜ」。
「しかし、どうも儲ツた上でなければわからんね。何なら先へ五十元貰ツて置いて、儲かツたら返すとする」。
「ぶツ、それぢやあんまり」と失笑せば、
さすが陳休も幾分かきまりが惡いか、「勿論な」と何が何やら分からぬ挨拶。でも大まうけと云ふのに惹かされて、「何もよし。眞に儲かりさへすれば何の四五十元。ともかくも其策を希はくは漏らしたまへよ」。
「聞いた上異變有りますまいな。無い、斷じて。よろし、それならば。御咄ししますがね、まづ大官、あなたが先巧みに狂言を行ふのです、怖ろしい黒豬を見たと言ツて」。
「居もせぬもの?」
「だから、見なくても見たと云ふので」。
「なるほど、夫から」。
傍から觀れば矢部が陳休を手遊物にして操ツたのは兒戲に類したとも何とも言ひやうの無い位の事であツたが、又それに旨く乘せられ、而も其つまらぬ元からして思ひも設けぬ日本に取ツての戰爭の利益をさへ得るに至ツたとは殆ど謊言のやうである。
慾と迷想、その支那人固有の殆ど天性とも言ふべき此二つの感情から此兒戲に均しい策も意外と思はれるほどよく行はれたので、それも何も日本帝國の膨張すべき潮流が既に暗々裡に孕んで居た兆候と後に矢部もつく〴〵言ツた。
策を充分に説き聞かせた處、陳休また不思議に山氣の有る男で、手を拍ツて稱贊した。
「おもしろい、いや何うも堪へられない。水滸、三國を讀むやうだね。行はれる、こりや屹度うまく行はれる。なる程黒豬、土地で妖鬼と信ずるものを利用して、うまいぞ、おもしろいぞ。だが君は謀士だね、奇才子だね。うまい事を思ひ附いた。是で金が儲かツて早く阿嬌を落籍せしむる事ができれば、僕は一生君を徳とする。世辭ぢやない、まツたく、全く」。
「今言ツたやうな事に大清國の武職の人々が先だまされましよね、迷ひましよね」。
「きツとだ、事實知らんけりや僕でも」。
愍れむべき奴ばらかなと我知らず笑ひ出すを、その意味の笑顏とも知らぬ陳休は勇み立ツて、
「一生懸命、辯を弄して欺いて見るよ。安心なさい。その日其日の状況はやはり深夜此辻堂で御知らせする事にして」。
「承知、どうか宜しく、充分うまくね」。
「乞ふわが本事を見よやだ」。
「あはツ、大氣焔ですな。そこで呉々も李朴閣下にその書面を呈するに方ツては細心注意しなさツてね」。
「言ふまでもないよ。安心しなさい」。
その授けた策を奏功させるには李朴から欺瞞しなければ爲らぬとの口實を以て先陳休から欺き、一書を認めて陳にそれを托したのである。逆さ讀みにしなければ解し得られぬ日本文で自分の當地に來た事、料らずも陳に云々の策を授けた事を簡單に記し、最後にその次ぎの夜ある處で密に會見したいとの趣きを書き添へた。
鈍くも陳は欺かれ、矢部の言ふなりに爲ツて、いそ〳〵として立ち別かれた後ろ影を見送ツて、扨ほツと太息、禁じ得られぬのは嗟嘆である。吁、腐り切ツた士氣、あれで抑何の役に立つ。訓練の足らん位ならまだしもの事、監檢の行き屆かぬ位ならまだしもの事、土臺が士氣たる節が無い。心性の涵養は全く無い。皇帝の有るのをば知らず、無論國家の有るのをば思はず、何のために召募されて何のために兵勇とか戰士とか稱へるか、そこらを思ふ了簡微塵一點も存在せぬ。
と思へば今や交戰國の間柄ながらその腐敗した老大國の運命、其末までも想はれて、坐ろに竦然となる程である。
「嗚呼、荊軻の出た邦だがなア。張巡、許遠も出た國だがなア。文天祥、方孝孺も出た邦だがなア、吁その精神、それが最早しんだのかなア。だが、今のところ夫が敵國だから先可い。反對に日本が斯うであツたら何うだらう」。
惡魔につかみ附かれる樣な心もちに爲ツて、例の感じ易い人間とてひとり自らぞツと爲ツた。
「是につけても心性の涵養、尊王愛國の思想はすべて人民の腦裡に出來る丈深く植ゑ付け、刻み込まなければ爲らないものだなア。よしや俺が日本人たる姿をして居ないからして見ず知らずの烟草屋、それを如何に慾とは言へ、信じて掛かるとは何の事た。しかし手紙を受け取ツたら嘸かし李朴は驚くだらうて。驚くも可いが、その又日本から間者として忍び込んで居る李朴が此俺が入ツて來た此方面に駐まツて居るのも奇だ。天が日本帝國をして克たせるやうに夫々と部署を定めてくれたやうなもの、やツぱり 聖天子の稜威のいたす所と言ふより外は無い。ありがたいな」。
「欣然として急に胴卷きから例の 至尊の御影を取り出し、辻堂の塵を拂ツてやがて其處に立てかけて、拜を遂げ、しばらくは顏をもあげない。
何事を思ひ入ツたか、やうやく頭を擡げる比には涙さへ目にやどツて、「御安
心あそばしませ、帝國は萬々歳」。
一句聲立てゝ洩らして拳で涙おし拭ツた。
「妙なものだなア、玉音を承はツた事も無く、又したしく龍顏に咫尺した事も無いが、かうして天姿を拜しまゐらせ、些か犬馬の勞を盡くし奉らうとして、今の樣に支那兵の不甲斐無さを見て日本の必勝を期し、偖それ故に宸襟やすらかに在しませよと申し上げる、嗚呼此胸中の心地よさ――涙、泣くのさへ心地よい」。
肺腑から出た至誠、眼に利慾も無ければ名譽も無し、只何となく忠愛に志したいのである。
その次ぎの夜、大同江畔の保山には矢部が陳休に入れ智慧した策がそろ〳〵實地に行はれて來た。
その夜陳休は江畔の番兵を命ぜられ、その時刻も丁度好い午前一時から三時までとの事、此機を外しては爲らぬと計り、やがて充分胸を据ゑて、いよ〳〵狂言に取りかゝツた。
慌たゞしく營所へ馳せ歸ツた顏色も安からず、齒の根も合はず、駈け込む勢に氣を呑まれて敢て制しも得せぬ衞兵の前を飛ぶやうに馳せ過ぎて、百總の所へ來て、
「閣下、大、大變でございます。あぶなく殺される所を漸くに逃げて――番兵の職務を曠しうする事の多罪なるは知ツて居りますが。どうぞ御ゆるしを」と手を合はせる。
「何ぢや、どうしやのぢや、けたゝましい」。
「御咄しゝます、あ、息が切れる、豬、々、々、純黒の豬」。
「あはツ、此奴狂人見たよな。豬がどうした何うして怖い」。
「そりや眞黒な黒豬で」。
「くすツ、白い黒豬が有るか、馬鹿」。
「いえ、その黒豬が、百總閣下、小人が番して居た所へ只今猛然突然驀然と現れまして……………」
「何疋」。
「一疋」。
「あはツ、一疋にしては大層な形容だ。黒豬が出たといふのか」。
「さよでございます。驚きましたね、口を利きます、へ、此小人に向かツて」。
百總不思議や顏色變ツた」。
「本當か。そぢやなかろ。貴樣が何をか見ちがへたのぢやろ」。
「御冗談仰やツちや……本當とも何とも。ですから駭きましたので。曰く吾は靈氣の精、大いに中華のために祉する所有らんとして今夜爾の面前にあらはれて心意を告ぐ。明夜半を期し、大同江畔芦荻きはめて茂生する所に待たん。爾もしくは百總張翼、もしくは監軍李朴の三人を限り、その一人必ず孤身にして來り會せよ。教ふるに交戰の機密、必勝の方略を以てせん。もし來り會せずば天譴かならず躬に在らん。あらかじめ知悉せよ、と斯うでございます、百總閣下。それで會見の約束しなければ今立どころに小人を殺すと云ふいや、も、その怖ろしさ」と汗を拭く。
「ふム、まツたくぢやな。面妖な事も有るものぢやな。全體この地方では黒豬をば妖魔と考へ……………」
「へエ、よく御存じで。窃聞でも………いえ、よく御存じで」。
「黒豬の出現するのは容易ならぬ時にぢやさうぢや。奇な事も有るものぢやなそれに監軍と本職と貴樣との三名を限ツて、而も孤身で來れとは不氣味ぢやな臨會すると約束したか」。
「いたしました、已むを得ず」。
「或ひは本職も行くと答へたか」。さも氣味わるげに言ふ。
「誰と限りませんが、三名の中一名は必らずとの約束いたしました」。
「必勝の方略を教へてくれるとの深切は忝けないが、頗る不氣味な咄し、いはゆる有難迷惑ぢや。とにかくに監軍へも申告して然る上の事ぢや衞戍を捨てゝ走るといふ事、貴樣に曠職の罪も有るが、非常の事ゆゑ今日の所は赦す。別人をして代はツて番兵たらしめるも容易であるが、又妖魔の事ゆゑ出現でもして無益に各人を怯れしむる事が有ツてもならぬから、今晩は其儘にして置かう。何まだ倭醜來襲する掛念も無いから」。
呆れもされる怠慢、しかし熟れて居たので兵士は一向平氣であツて、その癖また冐險にその出現を見行かうと云ふものも無い、七八人はぐるり取り卷いて一伍一什を聞いて居ながら。
言ふまでも無し、陳休をして李朴に屆けしめた書面によツて李も既にその意を領し、早く今夜在るを知ツて面白半分張翼に黒豬の妖鬼たる事などを此日の晝間物語ツて置いたので、あはれにも夜譚隨録や剪燈新話を面白がる腦髄は譯も無く攪亂されたのである、
すぐと其儘張翼は事の趣を報告しやうと監軍の居る所まで行ツて見ると、監軍は只一人巡察として今方何處へか出たとの事、まるで一個人が前歩にでも出たやうな氣樂きはまる所爲ではあツたが、是また珍らしくも無い事とて張翼更に驚きもせぬ。
李朴この時は矢部の書面を領して大同江の畔でひそかに久しぶりの會見をして居るのである。
大同江畔蘆荻のさかんに茂生する邊、河原の小砂利の上に胡坐をかいて相對して語り合ふ二人の人士、その一人は李朴で、今一人は烟草屋姿に身をやつした例の矢部道任である。
「久しぶりの拜晤、いよ〳〵斯う戰地で御目に掛かるも面白い時期となりましたなア。御書面を領した時は實に夢のやうで、且うれしく、夜になるのを待ちかねました。しかし先生、あなたも隨分奇を弄しますな。如何に支那人が妖怪談を好むからとて、思ひもつかぬ黒豬などを種に持ち出して――勿論御書面で御策畧の趣きも知りましたから僕もとぼけて前以てそれとなく百總の張翼といふ者に黒豬は妖鬼である抔と咄して聞かせて置きました、何しろ面白半分に思へば馬鹿馬鹿しいですな」と李朴が笑へば、
矢部も笑ツて、「周到なる御注意、いや結搆結搆。隨分馬鹿馬鹿しい巫山戲でさ、全くな。實行できても出來んでも何かまやしません、此處で外ならぬ貴官に御目に掛かれば本懷の至りです。どうか些軍機を御洩らし下さるやうに」。
「承知しました、只御如才も有りますまいが、御注意の爲めに御咄して置きますが、此頃大分日本からの軍事探偵が當地邊へ入り込んで居る模樣でさて隨分よく捉まるです」。
「えツ、そんなに捉まりますか。殺されましたか」。
「ええ、もう、容赦無く。既に僕の知ツて居るところでも三人ばかり。その内一人は何とどうです、僕が糾彈して僕の面前に於て殺させました。たしかに同胞と知ツて居ながら、如何にも軍事探偵たる證據が有るので、隊員の手前どうしもて救ふに由無く、涙を揮ツて馬謖を斬ツた古事も憶ひ出されましてな、實に、實に、涙を呑んで。せめてもの志には慘殺だけをさせぬ事にして」。
「已むを得ませんなア。しかし可惜志士を…………無念だなア。名は何といふ男で?」」
「口を封じていかに責めても言はず、たま〳〵口を開けば殺せ殺せと云ふのみで。いや立派でした如何にも。猶殺させるのに氣の毒で、惜しくてな。形容しきれません、その時の僕の胸中は――御察し下さい。ですから御注意をよくよく爲さる樣老婆心切るに申し上げるのです。實にあのやうな最も期を遂げる程殘念な事は有りませんや」。
「千萬感謝いたします。實に今仰やツた事は私の一身に取ツて容易ならぬ訓戒よく〳〵注意します。が、頗る意外の心もちがしますな、此邊まで忍び込んだのは私一人かと思ツて、實は自負でもする位の了簡で居ましたのが、何ぞ料らん同胞の志士はゝや殺されるまで入り込んで來て居るとは。さすがは日本人、萬歳! 日本魂いまだ銷磨せずツ、凛乎たる秋霜烈日――嬉し過ぎて今といふ今どうも此」と泣き出した。
「泣かずにや居られんです、じツつに」と李朴も共に聲うるませて、「日本の軍事探偵の殺される状況を見聞きするに付けて、その潔い最後の遂げ方、人をして切齒扼腕もさせる、また魂飛び肉動く迄にもさせる、殺して置いて支那兵すら喋々として褒めて居まさ。同胞がすでにあの位の元氣、勝ちますよ、たしかに日本が」。
「勝ちますなア、きツと日本が」と涙一杯の眼の儘さも、さも嬉しさうに笑みを示して、「をしい事にその人の名が知れないのですな。しかし敬すべき吾黨の士、未見の友では有るが敢てその英靈に向かツて心から感謝を表せずには居られぬ、えらい、實にえらい、單純な形容詞では言ひ盡くす事も出來ない、李君できませんやな。申し上げるのは畏いですか、わが國の 聖天子陛下がそんな事を御聽きにならせられましたら、そも〳〵何ほどの御喜びでツ…………と思ふと、ちツ、斷膓に堪へら…………吁、眞に涙ツ」と又せきあげて聲を呑む。
李朴も目をしばたゝくのみである。やうやくに太息を洩らして、「ですが人事と思ひなさいますな。捉まへては殺す度ごと如何ほどの人數が探偵に忍び込んで居る事かと却ツて支那軍の方では風にも雨にも乃至木にも草にも心を置くほどで、それ故此頃の偵邏の嚴重なのは一とほりで無い、そこを潜るのは困難中のきはめて困難たる事と考へなければなりません」。
「御もツとも、さよでしよ」。
「碌に正當なる糾彈を遂げて然る後に殺すと云ふのぢやないです」。
「すると、だらう、らしい位で最早すぐに?」
「まづさうです」。
「そりや驚く、すこしく酷な……………」
「些しくどころか。勿論酷は特色でさ」。
卒然思ひついた樣に李朴は聲に力を籠めて、「軍事探偵と認められるべき照驗に就いて御考へは有りますか、どんな物で然みとめられるかと?」
「その事今伺ふと思ツて居りますので」と流石に矢部も熱心である。「まだ取りしらべられて事も無く、全然無經驗ですから。もツとも地圖や器械類は直ちに怪しまれるべき材料だぐらゐは知ツても居ますけれども」。
「地圖や測量器械、乃至寫眞器械、双眼鏡は言ふ迄でもありませんが、單純な磁石でももし身體檢査を行ツて發見すれば、やはり怪しいと認めます。既に今御咄したゝ僕の陣營で殺した人は磁石と此方面の見取り圖とを持ツて居たゞけでしたが、それでもやはり……………」
「たツた夫だけで?」と目を睜ツたが、又言ひなほして、「でも無い、身取り圖が有ツては流石に」。
「ですが、その圖とても然ほどのでも無かツたでした。日本で唐紙と言ひます紙、あれに鉛筆で要害の地形を符號でしるし、此方面の兵の配置と森林中の伐採するに足るべき木の種類と數とを英文で書き附けた、それもです、靴の中へ履き込んであツたので、處々磨滅してさへあツたのです」。
「よく注意したものですな。しかし靴の中では却ツて……………」
「御説のとほり、却ツて怪しまれるです。丸めて懷中にでもあツた方がむしろ然ほどにも」。
「大きに」。
「處を宛も大切そうにして居たのが惡かツたので。そこへ持ツて來て又生憎英文を讀み得る上級の兵勇が有ツたのです。その人の服裝ですか。無論支那服、一見どうしても支那人、支那語もつかふのです、が、どうも音調が…………」
「已むを得ません、音調はどうも。それも一つは怪しまれた材料となりましたな」。
「さうでした。それ故に諄いやうですが、携帶品が殊に〳〵大事だと言ふのです。就て、氣になるので伺ひますが、いつぞやも御示しになツた、先生、あなたが常に懷中にしたてまつる 至尊の御影、やはり今でも御持參ですか」。
「はツ、なるほど」と今更のやうに氣が付いた、如何にもそれを持ツて居ては取りしらべられた時疑ひも無く困るとの意は其けたゝましい語氣にも現れて。
「懷中にしたてまつツて居ります、一瞬の間も恐れながら咫尺たてまつるとの心で」。
「危いではありませんか、もしそれを支那兵に認められたなら」。
「御もつともですな」と稍當惑顏。
「ひそかに貴下のために圖るに、折角御忠愛の念を此所では姑らく御制止になツて、どうか御携帶なさらん方が御得策かと考へますな。身の危險には代へられません」。
やゝしばらく沈吟して、「御尤の御言葉、かたじけない御心切、さりながら何うも是のみはなア」。
「御携帶なりますか、どうしても」。
「敢て一刻だも離れたてまつるに忍びんです」。慨然として涙ぐんだ。「何事も唯 陛下の御ため、よしんば骨を叩かれ肉を鱠にさるゝとも厭はんとの精神、そりや日外御咄しいたした通りで。心ばかりは咫尺したてまつるつもりで、日日の事柄は細となく大となく一々に奏上し、その度毎に嗚呼忝くも微衷を御嘉納あられたと、それを心の滿足として快く夜も枕に就くのです」。意氣は熖となるばかりである。
「御至誠は敬服の外有りません。さりながら矢部さん、猶御一考を煩はしたいです。それで御心もち丈は御滿足だとした處が、そのために終に怪しまれ、骨を沙塲に曝すに至る事でも有ツて、それで 陛下へ對し奉る忠の目的は達したでしよか。ぢや有りますまい。心さへ一日も陛下を忘れ奉らなければ、もはやそれで充分でしよ。好んで身を危うする材料を具へて、可惜 陛下の御ため惜しむべき時は何處までも惜しむべき身をわざ〳〵捨てるにも及びますまい。僕は失敬ながらその類の忠をば婦人の忠、むしろ形式的に近い忠だと斷じますな」
至理の忠告、かへすべき言葉も無い。さりながら道理が感情を征服する程難い事は無い。その言を至理とは思ひながら、猶 御影に離れたてまつる事の宛がら生別れでもし奉るやうな感情をば偖容易には鎭められなかツた。
默然として俯向けば、李朴も亦默然。冴えわたツた月は白く、瀬に呟く川浪の音と、蘆荻にわたる風の囁きとが唯我の顏にも目に立つ。
「どうです御决心は付きませんか」と李朴は答へを促がした。「さらば此度は僕から改めて口幅ひろいやうですが、陛下の御ため、國家のため敢て形式的の忠を御斷念下さるやう御願ひ申し、御頼み申します。得易からぬ志士をつまらぬ感情ぐらゐのものから狗死にさせる事、とツても忍び得られません」。
鐵鎚を撃ちおろした樣な一言、肝にこたへたか應へなかツたかを可惜しく言ふ迄もない。玆に至ると武人氣質、李朴は聲までふるはせた。
「意地でも肯いて貰ひます。もし又理で情を制されず、貴下が肯き入れん――さらば僕は貴下を以て一僞善者と認めますツ」。
此たびは鐵鎚どころか金剛杵の痛撃である。矢部は目の色までを變へた。
「僞善者ツ?」と叫んだが、ぴたり默して、兩手で堅く頭腦を扼して火熖のやうな息を吹いて、「僞、僞善者とは……………」
「で無ければ」と李朴短兵急にさへぎツた。「僞善者で無ければです、敢て斷言しますぞ、柔弱婦人の精神、男兒の膓が無いのです。何の、〳〵、區々たる感情」。
「はツア」と肚の、肚の底からの嗟嘆の息、「李君――わ、わかりました」。
「ほム、わかりましたと?」
「承知しましたツ。ちツ、已むを得ません、岡行くも田行くも忠は一つ……」
「そ、そ、それだツ」と碎けるやうに。
「さらば迚もの思ひ切り時、今夜を限りとして 御影をば李君、貴官に」。
「僕に? そりや忝ない。謹んで護りたてまツて――想起します亡命して終に此支那の武職となツて何年間、さすがに胡馬北風の情は有ります」。愁然として「以來夢より外には 聖天子の儀仗をさへに拜する事も叶はず、まして况んやかしこい 御影を。そも〳〵一葉を肌にし奉ツて來たら可かツたのを、その時其處までの氣が付かず、以來秋風の夕、落月の曉、また言ふに言はれぬ情懷も有りますのでなア」。
「どうか護り奉ツて下さい。また萬一此矢部が戰塲の露と消えた時には、切めて私を御憶ひ下さる材料にも」。
「無論、々々」と點頭く間に矢部は胴卷きから例の 御影を取り出すや否や、河原の石を些しばかり積みあげて、更に淨く砂をも拂ツて其處に安置し奉ツた
「うム是は好い御思ひつき、御一所に拜を遂げましよか」。
忙がはしげに川水で含嗽を行へば、矢部も共に含嗽して、「では私から御さきへ――よろしいでしよ、失敬ながら」。
いざと川原に跪いてまづ一拜した刹那、たちまちに胸迫ツて、つと涙がさしぐんだ。
嗚呼今の矢部の擧動を女々しいと云ふ人が有らうか如何に。もし有ツたなら著者は親友であツた矢部のために殆ど痛罵せずには居られぬ。此刹那の一滴は日本人士が 皇室へ對し奉ツて表し奉るべき至誠、その實に凝ツたものゝ模範である。清麿のも此涙、正成のも此涙、彦九郎のも此涙であツた。
狂といふか。熱誠の極もとより狂には相違無い。只それ狂、それ故に一向專念、即ち節も有り操も有る。利をはなれ、名を思はず、只どことなく、何となく此萬世一系たる 皇室、此金甌無缺の神國のため、情が迫れば泣き出すのが日本魂の美ては無いか。どことなく敬し愛する、然らばそれは理法に因らぬ一の感情、強ひて言はゞ迷想だと、もし冷血の人が言ふならば甘んじて其迷想との評は受ける、喜んで受ける、むしろ――唯それが日本魂の美である。至誠は斷じて其の理法を問ふものでない、熱心は必ず人を一の盲たらしめ、狂たらしめる。算盤玉を彈一彈して前後みかへツて事にあたる、それらは必らず熱に乏しい。
月は皎々と冴えわたツて、此志士をして 御影に別れを告げ奉らせるときにあたツて、特に拜顏の便宜を與へたものらしく、さも無くばその清らかな隈無い肚をせめて名譽のために照し輝かせる心とも思はれる。
前から引き續きて聞こえる瀬の音、又風の聲はさながら故山のものとも異ならぬが、今は咽ぶやう、歎くやう、悲しむやう、又呻くやうにも聞きなされて又「壯士一たび去ツて………」の易水の歌も憶ひ出す。
「恐れながら草莽の一微臣、玆に今月今夜を以て御わかれを申し上げ奉ります――御わかれ、暫らくの、又或ひは是を限りのツ」、聲は異樣にふるへた。「恐れ多い言ではございますが、宸襟を安めまゐらせたい一念は敢て此上とも人後には落ちません、又微力さいはひに稜威の光明の下に邦家のため一毫の益を成す事も有らうかと存じます。それがためには最終の支拂をば只この蜉蝣の一命として」。涙かい拭ツて、「今夜わかれ奉るつらさ。が、已むを得ず日本のため。よしや別れまゐらせましても心は絶えず千里の關山を馳せて、かしこけれども千代田の宮門。恐れながら 御影を仰ぎ熟れた此眼底にはいつしか深く 御影を印象して眶を閉ぢましても明らかに 聖容に接する懷ひ、よしや不幸にして今後身が敵兵に寸斷されましても、それは誓ツて笑ツて死にまする、名譽にも面目にも 御前で死ぬことを得ると思ツて」。
神靈の手に掴まれる心地がして、かたへ聽する李朴まで我しらずぞツとした
其儘矢部は拜伏してしばらくは面をも揚げなかツた。
「愚痴のやうでは御座りまするが、兎に角是を御わかれと存じまするに因ツて微衷をも申し述べました。最期の塲には笑ツて死ぬ、平和に死ぬ、嬰兒の心もちで死ぬ、是だけは年來の希望としてどうか實行いたしたくも存じ、又それがためには平生から心の滿足といふ事を是非とも要する、それには國家有るを知ツて我身有るを知らず、天子有るを知ツて國家有るを知らず、仁義のために身を抛つて始めて瞑目するにも遺憾無く、即ち一大滿足を抱いて死ぬるといふ、是だけが本心でござります。玆に涙は雨と降る、但し區々たる未練のためでは御座りませぬ。恐れながら威容堂々たる 御影、かくの如く堂々たる樣で在された 龍顏が恐れ多くも今は廣島の一客舍に在されて嘸かし前途の事を御苦勞に思しめされ、その御氣色をあらはさせては在しまさぬかと…………」感きはまツて口籠ツた。「さりながら宸襟安らかに在しませ。死を期して國のため、陛下の御ためには盡くし奉らうとする者澤山にござりまする。日本男兒の一念の凝るところは錬鐵も何のその、やがて程無く王師も凱旋、今からその日が目に見えまする。嗚呼、君、天上の一輪の月、心あらば微衷をも傳へたてまつツてよ、何とぞして 聖體に御恙あらせられぬやうにと」。言ひをはツて又伏拜する。
一方ならず感動されて、李朴も身に麻痹をさへ覺えるに至れば、御影も動く如くに思はれ、且又狂にまでも近い矢部の一心も言ふ方無く尊く見える。
「然らば李君、御影を御納め下さいまし。心ばかりの御わかれは最う聞え奉りました」。
見れば李朴もそツと眼を拭ツて居る。
是も御前に拜伏して、「申し上げ奉ります。恐れ多くも外面は敵對し奉る者の一人、されど大日本帝國のため、皇帝陛下の御ために故さらに身を異郷に捨てましたる賤臣、さいはひに今矢部からの好意により、謹んで 御影奉護の名譽なる任に當りまするで御座りまする。よしや名は變はり、國籍は殊なツて居りましても一片丹心の在る所を見そなはされて、日本臣民の一人と何とぞ御覽を願ひまする」。
相讓らぬ眞心を表し奉るのを見れば傍で矢部も心うれしさ一とほりで無い。勿體ない 御影ではあるが、斯くの如き人物に預けるのなら更に不快なところも無いと、とける計りの笑顏になツて、「私もまづ一安心しました。どうぞ此後は宜しく御守護下さいまし。ところで積る物語はどれが何うやら夜を徹しても盡きませぬが、又餘り時間を過すのは却ツて御互ひに不利益なるでしやう其都度の御打ち合はせは此邊でするとして、私は却ツて晝は何氣なく公然と營所の中へ烟草を賣りに入ツた方がむしろ可からうと思ふのですが――そこで貴官から然るべく御取り做し下さるならば」。
「さやうさな」と稍しばらく考へて居た。「隨分危いやうな氣もされますが、しかし貴下の事であツて見れば」。
「どうか御聞き許しなさツて下さい。大丈夫御迷惑にならぬやうにしますし、又よく營内の歡心を得るやうにもします」。
「それにした處が一應糾彈をば公然と行はなければ爲りませんよ、御承知くざさい。何しろ一同が中々猜疑の念に富んで居ますから。その時如才なく行ツて下さりさへすれば宜しいので」。
「どうか何處までも朝鮮人のつもりで押しとほして見ましやうよ、一生懸命でさ」。
不圖見れば川岸を縫ふやうにして松明の影がちら〳〵し初めて、二三人の聲もして、此方へ近づく體である。
「はてな、あの松明は」と李朴は眸を定めて視て、「うム、僕の營兵だ。はゝア僕をさがしに出たのだ」。
「ぷツ、兵士が戰地で夜あそびの士官を搜すとはよくも然う不規律に………
「あはツ、僕はじめ故らに盡力して不規律ならしめるです」。
「御わかれとしましよ、今私が見られたらいけますまい」。
「何とでも口實は有りますが、然樣、こゝでは見られん方が……………」
「では明日の晝」。
「待ツて居ります」。
直ちに矢部は身をひるがへしてその後に近く雜生した蘆荻の陰に潜んでしまふと、手早く李朴は御影を懷中にしたてまつツて、やゝ立ち上がツた所へはや松明は近づいた。
近づき來る松明の火影に李朴しかと見定めれば、はたして我營の兵士であツた
「巡邏か、何用だ。俺を尋ねにか」と聲かけると、
一同に歩武をぴたりと止めて、「あ、あすこに御出でだ。李監軍、張百總の命によツて御歸營の事を願ふため、御出先を御たづね申して參りましたので」。
「あ、さよか、要用か」。
「何か存じませんが、至急との事で。勿論只今偵邏が一人の怪しい者を引ツとらへて參りましたが、多分その件らしうございます」。
「又怪しいものが居ツたと?、敵か」。
「倭奴らしいとの事で、もツとも中國の服裝は爲てますが」。
李朴些しく胸を轟かせた。頻々として捕へられるものゝ重なるのは言ふまでも無く太甚まづい。猶豫はして居られぬ、一刻もはやく立ち戻ツて、どうにか處置を爲なければならぬ。さるにても又間のやうに日本からの探偵との證據があがツて、終に殺すやうな事に立ち至ツてくれなければ可いがとばかり。氣は氣でなくての急ぎ足。
潜んで此應答を聞いて居た矢部、是また途胸を衝いた。支那の偵邏の眼が鋭くてか、日本の間諜の忍びが拙なのか、いづれにもせよ然う毎々怪しまれて捉へられるものが多くては、實に李朴の言ツたとほり、危ふさも又一入加はる。今その後から尾行したいが、さりとて夜の事なり、營所へ入れるものでなし、怪しまれるが關の山、しばらく今夜は事無く此儘去ツた方が安全な策だとばかり、しづかに松明の影を見送ツて後、何處ともなく立ち去ツた。
李朴が營所へ立ち戻ると、張翼は儼然とかまへて、その嫌疑者と云ふのを既にもう裸にして面前に引き据ゑて居た、その傍には兵士十二三人が立ち列んで棒千切など持ツたものも有る、上官の命令次第いつでもそれで責さいなまうと用意して。
「また、こんな怪しい奴がありました。偵邏がそれと認めて一先途上に於て取りたゞし、全く疑はしいと見定めて今引致して來ましたので」とまづ張翼が披露した。
「なるほど、貴官も御しらべに爲りましたか」。
「御歸營を待ツての上の事として、まだ委しくは。但し此奴の族籍は何處だと詰問しました。どうしても中國人と主張しますから。さうすると山西省潞安府長治縣の東南なる壺關といふ地の産だと言ひます。然るに惜しいかな、此營内に同地方面の者が一人も居らず、その眞否を斷じ難いですが、どうしても疑がはしいのは此奴の所持する此手拭ひに」と手拭を取り上げて李朴に示し、「模樣のやうなものが書き散らしてありましよ。點々木の葉のやうなものを記してあツて、怪しむべきは此處に「鎭」、此處に「定」、此處に「來」と書いてある事是です。鎭遠、定遠、來遠、の略字ではありますまいか。その傍に又一々歐字で212だの34だのと記してある、是は何でしよか。歐字を用ゐる、既に倭奴の證據と言ツても差し支へ有りますまい、中國の人で用も無きに斯く外土の文字を用ゐる事は斷じてありませんからな。况んや鎭だの、定だのと書く。又况んや落書きも物に因る、手拭ひなどに――紙ならば兎に角。僕は何うでも怪しいと認めますな」。
だまツて聞いては居たが、李朴その胸ぐるしさ一とほりで無い、と云ふのは張翼が今斯く怪しいと目を注けた、その着目が一々道理に當たツて居るからで
是を反駁する口實は實に無い。212だの34だの歐字の意味を張翼は知らぬらしいが、李朴に於ては聊か心當りが有る。即ち外でもない、近々に日本艦隊を粉碎する一决戰を試みやうと北洋艦隊は頻りにその支度を急ぎ、戰爭の際甲板の上で血に辷らぬための用意で大同江の河口から小砂を袋へ盛り取ツて人夫をして三板ではこばせて居るといふ事、および仄におぼえて居る樣な心もちもするが、鎭遠へは二百十二袋ほどを盛るとかいふ事、そこらを彼是思ひ合はせれば、其歐字はそれらしく、既に然うとすれば無論日本からの探偵、嗚呼又も又もしまツた事になツたと肚の中でとつおいつ。
表面はさりげなく、「何さま究竟の御注目、そりや大方外れますまい。しかし今夜は先その儘にして、又明朝を期して調べる事にしやうでは有りませんか。些しく身體に僕も疲憊を覺えて居りますから」。
と言ふ肚の中では一刻を延ばせば一刻の利が有るかも知れず、又或ひは明日になツたら矢部も來て、好い智慧を貸すかも知れず、殊に又捕へるや否や迯がす事もならず、然う毎度殺すといふ事殘念でもあり、又矢部に對しても耻かしい心もちがすると云ふので、何氣なく延期させるやうにした。
「御命令ならばそれに從ひましやう。しかし嚴重に拘束して」と張翼下士に目くはせした。
「嚴重は可いが、過酷に過ぎるな」。
李朴の此一語、捕虜の身に取ツては如何ばかり嬉しいか。
「えゝ烟草屋でございますが、監軍樣の御言葉によりまして今日から御用を伺ひに上がりました。どうぞ御門内へ立ち入ります儀相叶ひますやうに」と小腰を屈めて、矢部は門番の支那兵に頼むと
下た目に見おろして、「煙草屋だと? 鑑札は有るか」。
「まだ頂戴いたしませんが、監軍樣が御承知で」。
「ご承知なら鑑札が下附になツた譯だ。無ければ立ち入らせる事叶はんわ」。
「ではございましよが今日いたゞくつもりで。恐れ入りますが、烟草屋が參りましたとお取り次ぎ下さればそれで……………」
「ふざけるな。貴樣の用を取り次ぐ役ぢやない。蛆蟲のくせに大それた事を吐かしをる奴も有れば有るもンだな」。
「御立腹では恐れ入りますが、烟草はお好きでゐらツしやいますか」。
「きらひだ、大きらひだ」。
「それでは些困りましたなア。御好きであると宜しいンですが。御好きなら御披露のしるしまでに些しばかり進上いたしたいと存じて居りましたに」。
「何、くれる? 貰ふなら厭はんな、きらひでも。又好きな人に賣ツてやる。本當にくれるか」。
「御迷惑でさへございませんければ、些ばかり」と三袋ばかり取り出せば、
「あはツ、貰ふに迷惑が有るもンか」と鷲づかみに受け取ツて、「どうだもう二つばかり出さんか、その代はり取り次ぎしてやる。よし〳〵、もう二袋、そんなら待て、今取り次ぎしてやる」。
代り番をも置かず一散に奧の方へ駈け込んで去ツたが、程なくにこ〳〵しながら歸ツて來て、
「なるほど、大官が宜しいと言はれたから通れ。こツちだ。かう來るのだ。果報ものだぞ貴樣、今倭奴を捕へて糾彈がはじまツて居る處が見える」。
「さよですか」と言ひ流したが、實は苦勞でならない。夜の目も合はなかツた位で、それで早朝來たのである。
段々と是迄に矢部も敵地へ忍び入んでは來たが敵の營所と言ふのは初めてゞ其凄いやうな、怖ろしいやうな心もちを實地に、又深く味ふのもはじめてゞある。一歩あやまれば死、それは怖くはないが、不成功の死は素より以て好ましくなし、できる限りの奏功を爲やうと言ふ、それ丈に胸中は一方ならぬ苦勞である。
「聖天子、聖天子、大日本帝國の天皇陛下」と肚の中で默祷して、案内にしたがツて、其塲に至り途中も色々と視察したい所は山ほど有ツたが、わざと最初から怪しまれては爲らぬと思ツて成るべくは控へ氣味にして、やがてその塲へ行ツて見ると、李朴を正面として、張翼といふ者らしいのも儼然と座をかまへて居る、その前には頭を低れてその捕へられたといふ男が悄然とうづくまツて居る。
矢部は些しく離れて李の前に叮嚀に禮をして、
「御ゆるしを得まして罷り出ました烟草屋、何とぞよろしく御贔屓を願ひ上げます。いづれ樣どうぞ宜しく」と張翼の方をも見る。
李は前夜とは宛がら別人のやうに變はツて、「ふム、承知した。ところで乃公と此百總張氏へ呈する經紀用銀(手數料)はいくら出す」。
「何ほど差し出しまして宜しうございますか、とんと存じませんが、どうぞ御遠慮無く仰せ付け下さりまして」。
「微々たる商人からの事ゆえ澤山にも取れまい。張君、二三十元ならばなア。こりや烟草屋、二三十元、いやさ卅元で勘辨して置かうわ」。
「かしこまりました」と笑ツて異議に及ばず出すそのをかしさ比べられぬ。そも〳〵又此一狂言で度胸もぐツとすわツて了ツた。捕へられた人は傍目もふらず俯向いて居る、その横顏きツと差し覗けば、是はしたり何處やら見おぼえ有るやうな。はてな日本人かも知れない。誰だツけな、見たやうな。と思う途端捕虜もまた此方を見る。見て、やツと吃驚、さすがの矢部も顏色變へた。是即ち別人でない、自分が京城で身を寄せた彼の雜貨商小田である。
鋭くも張翼けぶりを見て取ツて、「烟草屋ツ」と一喝して、「貴樣、此奴を知ツとるな」。
慌てゝ、「いゝえ……………」
「いや知ツとる。顏見て双方おどろいた工合ひ、この翼がきツと睨んだ。知らんと言ふなら所存が有る。李監軍、こりや容赦なりませんぞ」。
しまつたと思ひながら李も何喰はぬ顏をして、
「烟草屋、知ツて居るなら知ツて居ると云へ、貴樣に迷惑のかゝる譯は無い。實は此奴倭奴らしいとて召し捕ツて來たもの、まだ取り調べ中なのだ。貴樣が知ツて居るなら此奴の身分も分かる、疑ひを决し、赦すなり、殺すなり何れとも爲る。貴樣の證言此塲合ひ大に有力なのだ」。
その謎の意は聰く推して、「さう仰やられますると眞實を申さずには居られません。實に此奴、わたくしに取りましては打ち殺しても慊らん奴で、此所で遭ひましたのは幸でございます。どうぞ私の見て居る前であなた方の御威勢で嬲り殺しにして」。
張翼得意氣になツて、「やはり貴樣知ツとるのだろ。驚いたろ乃公の眼は。此上ともに謊言言ふな。そこで此奴は中國人か」。
「中國人と言ひましてございますか。いづれものと?」探り探ツて言ひくろめる、その六つかしさ一とほりでない。
「何でも可い。貴樣の知ツたゞけを言ふのだ」。
きツと思案して、「眞赤な謊言です」。
「謊言を云? よし、いよ〳〵倭奴だな。倭奴だろ」
小田も李朴も胸ひやり。が、何しろ矢部の事、どうか胡魔化すだらうと計り殆ど活きた心地もせぬ。
とにかく張翼は疑ひぶかい性質だけあツて、又怪しい者の取り調べには機會が有り、それを瞞着し切るのは容易でない。小田の生命は唯矢部の口一つ、再會の嬉しさ一とほりでなく、それで其心を色にも示せぬくるしさ。誰も彼も胸は大波瀾の捲くのみである。
張翼急き込んで、「倭奴だろ、烟草屋」。
「倭奴ではございません。が、倭奴も及ばぬ奸物、此奴に私の家産は大抵蕩盡されまして、私は又御はずかしう御座いますが、此奴に妻をさへ奪はれ……畜生め、樣ア見ろ、好い氣味だ」。つかみ蒐りさうな見脈。
「うム、倭奴でないとな?」と張翼些しく失望の氣味で、「すると、やツぱり韓人か」。
「濟物浦もよりの賣卜者ださうで。小利口ゆゑ私どもの家のものをそツくり欺きまして、終に産をさへ傾けさせました。私が今のこの境界に陷ゐツたのもやツぱり此奴の故で。それ故どうにかして怨みを復したうございますが、此奴に不思議な術が有りますので、どうにも爲らず、旦那さま、私はくやしうございます、御察しなさツて下さいまし」。
「はて、不思議な術とは?」と張は聞き咎めた。
「薄氣味わるいのでございます、私どもの親どもは皆それで殺されましたので」
「そりや大變な奴だ、人殺しまでしたとは。その術といふのはどんな事か」。
「殘、殘念でございますよ」。
「だからどういふのかと言へば」。
「な、なみだが零れます」。散々に待ち遠がらせて、「此奴が些しでも怨みに思ひますと、いつでも直に其相手を………ちツ、畜生め」。
「罵詈は無用だ。はやく云へ」。
「あ、しまツた」。
要の處で妙な事だと張翼些し呆氣に取られて、
「何、何がしまツたのだ」。
深く後悔する體で、「口が辷りました、つひ。あ、言はなきや可かツた、どうぞ御勘辨、もう止めます」。
「そりやいかん」と屹として、なぜ止める、それ迄に咄して。取り調べ出した以上、要領を得ずには何うしても。拘束するぞ、貴樣をも」と睨めつければ、
「へい」とばかりで當惑顏。
「なぜ言はん、なぜ言へん。それとも謊言か」。
「きや决して――しかし、吁、困ツたな。くやし紛れにつひうツかり、旦那さま、どうでも御勘弁なりませんかなア。困ツたな。ぢや申し上げます、是非に及ばず」と屹と思案する體で、その代りどうぞ別席で」と聲までをふるはせて、如何にも啻ならぬ樣子である。
已むを得ず一先嫌疑者をば退かしめ、さてどういふ譯かと重ねて問ふ、それへ對しての答へが此の狂言の眼目と矢部は一心籠め、籠めた。
顏色までも變へてかゝツて、「口が辷ツてつひ不思議な術を彼奴が知ツて居ると申したのですが、もツと委しく御咄しすると屹度彼奴に怨まれます。怨まれると又私しも親どものやうな目に遇ひます。それですから彼奴の前では」。
「怨まれたとて最う如此されて居る、どうされるもンか。」。
「ところが然うで御座いません、神變極まる術ですから。吁、おもひ出しても氣味がわるい」。
聞かぬ先から張翼も稍不氣味を覺えて來た。が、聞き正さぬ譯にも行かない。
「李監軍、全體何の事でしよな。此男の言ふ事もさツぱり解りませんが、事實を述べて居るのでしよか」。
「さア、何ともな、よく質して見ませんければ僕にもさツぱり。こら烟草屋、有り體になぜ言はない」。
「申し上げます。只どうか私が申したと彼奴に知られません樣に。さうすると怨まれますから」。
「そりや承知した」。
「怨まれると殺されますから」。
「くどい。わかツたと云ふに」。
「ぢや申し上げます。彼奴の術と云ふのは恐ろしい者を役ひますので、それが固より妖怪なので」。
張翼いよ〳〵不氣味げに、「何を役ふのか」。
「黒豬でございます」。
黒豬の妖怪譚で前以て迷信の深い張翼を脅かして置いたのを料らずも玆に至ツて利用しやうとは李朴も全く夢想しなかツた、何しろうまい物を材料として持ち出したもの、驚くべき一種の頓智を持つ男だと心で深く感じると共に又可笑しさ怺へられぬ程である。
張翼はじめ並み居る支那兵、いづれも皆勿怪な顏、矢部はます〳〵生眞面目な顏。
「彼奴の居る所と云ふときツと黒豬が出沒しまして夜などは人を脅かしますのでが、その黒豬が神出鬼沒、とても手に乘りません。それで彼奴が人を怨みにおもふと、毎も其黒豬を放ツて食ひ殺させますので」、と稍涙ぐんで、「私の親どもも亦そのとほりにされました。どうぞ仇を御うち下さいまし。御願ひでございます。
「貴樣その黒豬を見た事有るか」。張翼眞面目で聞き出した。
馬鹿め、釣り込まれたわいと肚の中では冷笑ツて、「見た事はございませんが、見た人の咄しには並の豬ぐらゐの大きさで只肥え太り、それで純黒であるとの事で」。
「どうしても殺せないのか」。
「形ちこそ目に見えても一種の氣ですもの、とても殺すなどゝ云ふ事は」。
「ふム、氣か。氣では困るな。今の時世でも稀有な事を行ふ奴が有るものだなして見ると李監軍、彼奴は倭奴でも無いのですな」。
「蘇生したやうな心もちで、「たしかに倭奴では無いと解りました」。
張翼は目をぎろつかせて、「兵勇の陳休も昨夜とか黒豬を見て、而も今夜江畔まで吾々に來いとの傳言をその豬がしたとの事で、いかにも不思議だ。こりや酷待すると却ツてわるいかな、怨みに思ふ時には直にその豬を役して復仇すると云へば。李監軍、どうでしよな」と大に後悔の體である。
「勿論ですな。之を優待すれば味方に利益となるには相違有りますまい」。
「旦那方へ御願ひでございます」と矢部は乘り出した。「何でございます、優待なさいますツて? それや以ての外、御殺しなさツて下さいまし、どうぞ御願ひでございます。私はもう〳〵怨みに怨みぬいて居りますので、それ故一生懸命に彼奴の化けの皮を剥いてやツたのでございます。優待なさるとは飛でもない」
「馬鹿を言へ。殺す殺さんは此方の勝手だ」と張翼は叱咤した。
「ほム、こりや驚いた。やれ嬉しや殺して仇きを取ツて下さると喜んで一切を打ち明けたら、はツくしよツ、却ツて駄目に爲ツちやツた。惜しい事をしたツけなア、いツそ嘘吐いて彼奴は倭奴ですと言や好かツた。だが、そんな事仰やらず、旦那方なら御強い方でございますから、どうぞ殺してやツて下さツて」。
「しツ、くどいわ」と目を剥き出して、大きに御世話だ。罪も無いものは殺されんわい。徒らに殺して怨みを受けるのは好まぬわい。殺したくば貴樣勝手に殺せ」。
「駄目を言ふな、烟草屋」と李朴も其處へ口を入れた。「張君の言はれるとほりだ。貴樣は怨みが有るか知らぬが、此方どもに怨みは無い。赦して放すまでの事だ。しかし貴樣の志しも憐れだから玆で短銃一挺貸してやる。それでもツて貴樣撃ち殺してやれ」。
「わたくしの手でゞすか」と些しく矢部も面くらツた。
「さうさ、併し此處では爲らない。實は昨夜とか其黒豬が突然あらはれて一人の兵士に託宣し、今夜江畔まで吾々の一人に來いと傳へたので、それで誰か行かなければならない。が、不好だ。張君あなたは?」
「不好ですな」と苦わらひ。
「な、誰も不好だ。今思ひついたから貴樣に頼む、今夜今の男と同して吾々の代理になり、江畔に至ツて其言ふ所を聞き、了ツたら撃す殺すさ。それには貴樣が大いに取り做したので倭賊でないとの嫌疑も晴れ、赦された事になツたのだと吾々からも本人に言ひ聞かすれば、本人も大に貴樣を恩人と思ツて、决して不利益には爲るまい。こりや一擧兩得の策だ。な、さうしろ」。
張翼一も二も無く雷同して、「是は妙策、それ、〳〵、結構、大賛成、われ〳〵も小氣味わるい所へ行かずに濟む、國家のため大切な身を持ツて居て」。
こみ上げる笑ひを忍ぶ矢部のくるしさ。
載寧から大同江の流れを沿ふて下ツた所に金化といふ地が有る。一生懸命足に任せて口をも利かず歩いて來たのは矢部と小田との兩人で、もう此邊ならばと思ふ頃、畑中のとある草生に休息して顏見合はせてほツと一息。
これ〳〵の出放題でゆくりなくも敵を欺いて君を救ひ出したと一伍一什を矢部が物がたれば、小田は涙の進むのをも覺えず、幾度か再生の恩を謝した。
「まるで夢です。あなたに御目に掛からなければ、もう此頃私は刀下の鬼、危い命でしたよ實に。うまく又黒豬の事が役に立ツたもンで、それから又あなたの調子のうまさ、いやもう有り難いやうな、嬉しいやうな、扨をかしいやうな馬鹿げたやうな。唯何と言ツて御禮を述べて可いやら……………」
「小田君、そんな事いつ迄言ツて居たとて…………それよりは危急の塲合ひ、肝心の事を伺ひたいので。京城で御わかれしてから直に貴下は探偵となられたのですか」。」
「さうです、奈良君と一所に。その内に日本から軍事探偵として渡來した人も澤山有るといふ咄しゆゑ、さきへ乘り込まうとのつもりで、一旦平壤城近くまで行きました、二人で。ところが端無く敵に怪しまれ、あぶなく捕へられさうに爲ツたのを必死となツて戰ツて逃げ、それでとう〳〵奈良君とは別れてしまひました」。
「奈良君の生死は?」
「わかりません。それから漁夫に化けてそろ〳〵と大同江を下り、河口の長連縣まで辿り着くと、「矢部さん、御聞きなさい、重大な件。前後見まはしながら聲に力を入れた。「外洋に碇泊して居る北洋艦隊に戰爭の準備として盛砂をせツせと運んで居るのでしよ。おどろきましたね。更に近くへ至ツてよく〳〵偵察すると、水平の操練いや大變、どうして陸兵とは大ちがひ、立派で、そして勉強で」。
「ちツ、畜生め」。
「まアさ、さも忙しく見える樣子で考へると、もう海戰は數日の内ですな。支那兵の意氣また天をも呑まんづ計り」。
「おどろいた」。
「本當にです。とにかく日本艦隊を邀へ撃たうとの計畫らしく、それから考へると日本艦隊も近い所へ來たらしいですが、十分に戰ふだけそれだけの用意してをりましやうか、何しろ支那では全力を盡くして一戰の下に日本艦隊を鏖しにするとの决心ですからな」。
「嗚呼、その支度して居てくれゝば可いがなア」と流石に心細さうに。
「ですから苦勞で、どうか此事を一刻も早くわが軍へ知らせやうと思ふので。それで一散に道を急ぎ、つひ擧動も怪しかツた、その故でしよ、支那の偵邏に認められて、ばツさり遣られたのでした」。
「危かツたですな。しかし重要な御偵察、恐れ入りました。一刻も早く御報告なさるが宜しいと思ひます。すると是から本隊の方へ御出でになりますか」。
「その事、身は一つ心は二つと言ツたやうな具合ひで、今が大切な時と思ふにつけ、報告に歸りもしたし、又猶深く探りもしたし、どうしたら可いかと迷ツて居る位で。それでも貴下に救ツて戴いたればこそ報告もできるので、さもなければ迚も」。言ひさして考へて、「如何でしよ、私は是から本隊へ歸る事にしてその代はり是から貴下が同艦隊の擧動を猶深く探ツて下さるといふ事にしたら」
「大に望む所です」とは言ツたが考へて、「待てよどうしたものかな。今保山附近の陸兵には御承知のとほり私も先怪しまれずに近づいて居られるので、又もこんな便宜は用意く得られない、それを捨てゝ行くといふのも――はて、どうしたものか」。
丁度その時旅人と見える二人づれの者が通りかゝツた。一人は賤しい身裝で年の頃四十四五とも見える朝鮮婦人、又一人は漁師とでも見える體の、年の頃二十三四の是も朝鮮人で、通りかゝりながら畑中に矢部と小田との居るのを見て、一旦行き過ぎたが、その婦人が更に立ち戻ツて、畠越しに向ふから大きな聲で路を尋ねた。
「もし〳〵、其所の方伺ひますが、保山へは此道を行けば宜しうございますか」
「よろしうございます」と應接したのは矢部であツた。「しかし道が大分わるくなツて居りますよ」。
「支那兵は居りますかね、是から先には澤山。と問ひながら其婦人が此方へ近づいて來るので矢部も吾知らすふら〳〵とその方へ近寄ツた。
「支那兵ですか、支那兵は保山近所にはもう澤山居ます。其邊へ私は烟草を賣りに行くものですが、保山もよりは河まで皆支那兵の範圍内、それから先はまだ日本兵も居ず、支那兵も居ません貴女保山へ御出でになるのですか」と矢部は極めて氣輕に言ツたが、木にも草にも心を置く身の上とて相手を嫌はず多少の探りを入れずには置かぬ。
「いえ、もツと先へ參るのです」と婦人は只簡にこたへる。
「そりや大變、この戰爭も有らうと云ふところを。ほよど遠くへですか」。
「はい」とは言ツたが、先をば言はず、「保山から先は一所のあの者が知ツて居ますから」。
「なるほど。ですが、處次第で川南の方が支那兵が居らなくて、御婦人の旅などは大丈夫ですな。隨分追剥にひとしい眞似をしますよ。よしんば男の方が一人ぐらゐ御附きでも何とも思やしませんから」。
「さうですか」と冷やかに言ひ流して、「取られるものも有りませんから管ひませんや」。
「でも、旅人の往來はもう大抵とまツて了ひましたよ」。
婦人はそれを耳にも入れぬ體で、「有り難うございました。さよなら、だうも御邪魔さま」。一禮して去ツてしまツた。
が、振りかへり〳〵行く。
「小田さん、怪しいですぜ、あの奴等」と頻りに首を傾けて、「どうも只の旅客ぢやない」。
「些しをかしいですな」。只雷同の語氣らしい。
「どうも怪しい。何者だろ。まさか女の探偵でも有るまいが、どうも變だ。小田さん、私はあの者どもに就き、怪しいと思ふ箇條が二つ三つ有るのです。第一が、路を問ふのに同伴の男をさしおいて婦人が問ふとは尋常ぢやありません保山から先の旅をした經驗が有るといふ譯でしよ、さすれば婦人との道づれになツては勢ひ道などを聞くのは男の自然の役でしよ」。
「なるほど、そりや然ういふ譯ですな。何さま變だ」とやうやく解ツて來たらしい。
「第二に、あの男の漁師姿、ところでまだ長旅をした樣子でも無く、どうでも今朝あたりから始めて旅をしそめたらしい、よし今朝でないとして昨日あたりさ、此金化から海までいくらも無いぢやありませんか、この邊の海岸の漁師とは認められましよ」。
「いかにも」。
「それでゞす、保山まで位の道を知らず、それから先は知ツてるとは頗る變ぢやありませんか。保山までは知ツてるが、その先は知らんと言ふのなら、この邊の海邊の住人の言として尤もと思はれるです」。
「いかにも然樣」。
「然らば保山から先に住居したものであツたが、都合有ツて此頃は此近所に漁師となツて居る、と斯う見るより外有りませんや。しかしそれは疑はぬ目での解釋です」。
「疑はぬ目での解釋とは?」
「贔屓目での解釋です。更に疑ツて解釋すれば、大に其疑ふべき餘地を存して居るです。斯う疑ツたらどうです、あの漁師は眞の漁師でなく、假裝して居るもので、地理を知らぬ所で見れば他國のもの、扨路を問ふに男たる己れが傍觀して居るのは口が利けないので即ち朝鮮語ができないので、もし然うなら或ひは外國人、しかしあの相好、あの體格、日本人よりはむしろ支那人としか見えぬさア、支那人の假裝したのと言ツて、まア必ず中るとも言へませんが、その疑ひの餘地は有ります」。
「なる程」と言ツたが、小田も此度はまだ十分に會得し切れぬ體。
矢部は一入いきほひ込む。「まだ夫だけでは薄弱ですが、偖第三です、あの婦人が支那兵を怖れず、むしろ頼る語氣をも洩らす、又平氣でもある、あれが非常にをかしいです」。
「そりや僕もさう思ひました、全く、〳〵」と此度は小田大きに同感の體。
「誰とて支那兵の亂暴なのを怖れぬものは無く、まして又婦人の身で、之に加ふるに可なりの長旅、相應の旅費も有つ、それだのに此方から忠告を試みても一向平氣で居て、又行く先をも言はぬのは實に變です。目を圓くして安全な行路を聞くのが普通の人情、それが然うでない、然らば支那兵を怖れぬといふ安心がたしかに有るに相違無し、さア胡亂ぢやありませんか」。
「さう伺ツて見ると、いかにも不審ですな。敵兵に縁故の有るものですかな」。
「どうも然うらしいです。違ふか知れませんが、とにかく私は些し奴等に尾行して見ます。氣の故かいかにも怪しい。怪しいと思ふとあの漁師も支那兵の假裝したのかとも思はれましてな。一先保山方面へ引ツ返す事にしましよ」。
「私はもうあの方面へは立ちまはれませんや」。
「そりや大きに。ぢや私だけ」。
矢部の此鑑定は實に神のやうであツたのである。その矢部さへ尾行して一大驚愕を喫した、何ぞ料らん北洋艦隊から平壤城へ贈る密書を此婦人が持ツて居るので、玆に矢部に怪しまれたがため終に支那艦隊は海上の實權その一歩をあやまツたのである。
矢部も小田もいざ袂を分かつとなると戰地の事、御互ひに是が生別れとなるか知れぬと思へば、又互ひに死を期した身ながらも姑くは後髮牽かれる心地がして、隨分御自愛なさいと言ひかはす言葉にも千萬無量の情が籠もツた。右と左り、ふり返ツて最早互の後姿も見えなくなれば、斷然と又胸をも据ゑ、一散に急ぎ足、矢部は其怪しい婦人の道を跟けた。
後れたのは十町ほどで、それから見え隱れに尾行する事二時間ばかりの間は策の施すべき所も無かツたが、いつ迄然うしても居ても同じ事と矢部は更に思案を定めて此度は追ひ付いた。
「さきほどは。大分路が御早う御座ますな、このでこぼこして歩きにくいのに 故さらに漁師體の男の方に言ひかけたが、笑ツて點頭いたのみで何とも言はず、奪ふやうに婦人の方が受け取ツて、「さきほどは、どうも有り難うございました。何もう脚は達者ですから。貴下は是から何方へ」。
「やはり保山から先へ烟草を賣りに參ります。兵勇の方に御馴染ですから。どうせ御一所の道筋です、何なら御咄しでもしながら」。
「はい」と言ツたのみ進まぬ顏つき。
此方は委細かまはない。「大抵の人は旅をもしなくなツた今日此道而も御婦人の身でわざ〳〵旅を爲さいますのは何れ容易ならぬ御用事でゞも」。
「はい、取り込み事でして」。
「どちらから御出でになりましたので」。
「雉島の方から」とは答へたが、如何にも煩はしいと言はぬばかりの體。
偖こそ遠くも無い所から來たのであると、先第一の鑑定の中ツたのに心も勇んで、「あ、あの島の…………いやそれは。すると、舟でまづ御出でだツたのですな。支那艦隊に封ぜられて只の舟は一切通行どめになツてると言ふ咄しですがな」。此處ぞとぢツと樣子を見れば、
稍うろたへて、「そ、さうです」。
それであツて能く御出でになられましたな」。
「そ、さうです」
「いえ、よく御出でになられましたと言ふのですその中を潜ツて」。
「もちろん夜船でそツと」。
や、漸う拔けをツたわいと肚ではをかしい。「さうですか。就てあちらの方ゆゑ伺ひますが、艦隊はよほどの數ですか。失禮ながら漁師のたぐひの貴下、嘸よく御存じでございましよ」。意地わるくわざと男の方に言葉をかける。
女はさへぎツた。「これは唖です」。
「ふツ、こいつは旨いわい。耳の聞える唖かもしれない」。
女はたちまち面色變へて、「何ですとえ。一體あなたは饒舌りかけてばかり居てうツとしくて堪りやしない。好い加減になさいよ」。
此時矢部は早决心した。唯疑はしいと言ふ丈では荒療治するのも可哀さうなものゝ、戰亂の際塲合ひによツては厭ツて居られず、先方の出方次第と既に右の手は懷中で短銃を握ツて居る。
「道づれだからしやべるンでさ。人に道をさへ聞いて置きながら」。
「そりやそれで禮を言ツた」。
「禮なんぞ聞きたかないや。そう巫山戲で出やがら頭巾脱ぐ。それと知ツて跟けたンだい。さ、二人とも身ぐるみ脱げ」。
短銃出せば仰天した。僞唖の證據には男も忽ち面色變へた。
「泥棒だ、大變だ。御前さん、どうかして」と女が泣き聲で叫ぶと同時に
「烏龜! 白日鬼!」吾知らず男は支那語で罵ツだ。
「やツ、辮髮奴の僞唖だな。猶面白いや身ぐるみ脱げやい。四の五の吐かしや一思ひだ」。
氣を呑まれて迯げもやらず二人とも只茫然。
男は懷中から匕首やうの物を出したが、出した丈で短銃が怖ろしいか、其儘立ちすくみになツて了ツた。もはや男は頼むに足らぬと早くも女は思案したか、きツと爲ツて、
「仕方が無い、それぢや金は上げる。着物だけは勘辨して」。
「兩方だい」。
「そりやあんまりだ。金は其代はり澤山上げる。どうか着物だけは」。
「ふム大きく出たな、いくら有る」。
「馬蹄銀で、五本だけ。どうか夫だけで」。
「いやだ、否だ。どうでも裸にしなけりや…………さ脱げ、脱がなきや撃つぞ」。
「待、待ツて。ぢや譯を咄すがね、あたし共並の旅人ぢやない。吁、仕方が無い、かう爲ツた上は明かさなければ――北洋艦隊から平壤へ行く使者なのだよ大切な役目が有る、あらい事しては御前の不爲でもあり……………」
矢部もぎよツとした。「面白い、そんなら猶の事だ。どういふ使者のおもむきだ」。
「それを何も御前が聞かずとも。それよりも御前には金、ね、大事の使ひ、國のためぢやないか、そこを何ぼ御前でも然う思ツて」。
「ふざけるない。さうは目星を付けたンた。好い氣になツて白状しやがツて、樣ア見ろ。やい、よく聞け、金も何も要らないンだ、その使ひの趣意が聞きたいやい」。
「そりや私にもわからない、手紙だもの」。
「よし手紙だな。やツつけろ、そんなら」。
咄嗟、刹那、銃聲一發、男は撃たれてのけぞツた。
あれエと女は金切り聲我知らず迯げにかゝる、その襟つかんで引きずり仆して、「馬鹿め撃たれたいか、迯げなどして」。
「ど、ど、どうぞ命だけ」。
「着物だけと云ふのが命だけに下がツたか。さ、その手紙と云ふのを出せ」。
「飛でもない事に、吁、なツた。手紙取られるのか濟まないなア」と口惜しさうに襟元さぐツて、なるほど一封の書状を取り出した。
受け取ツた儘すぐには見ず、「この男は何だ」。
「支那兵です、定遠號乘り組みの。え、私を護るために附けられたので」。
「何の役にもそれで立たないのか。よめた、すツかり。人目に立たない樣にして手紙を貴樣に持たせ、警備を一人附け、平壤へ遣らうと言ふのだな。すると保山まで今日行ツて、それから護衞が又替はるのか」。
「さよです、此人は其所から舟へ歸るのです、保山屯駐所からの證票を受け取ツて」。
「何者だ、一體貴樣は。やツぱり雉島のものか」。
「はい、あの島の漁師の家内でございます。もし〳〵それで宜しければ何うかもう此儘御ゆるし下さる樣に――もう此上は御咄しする所もございませんから」
「うム、聞く所も最う無い。が、不愍だが赦されない」。
「いえツ!」
「貴樣が歸れば此事をしやべる。すると此方都合がわるい。俺は日本からの探偵だツ」。
「ひエツ、ぷツ」とばかり腰がぬけた。
「觀念して死ね、不愍だが。助けたいが是非も無い。その代はり回向もする、のみならず卑怯は爲ない、貴樣の此金や髮の毛は今に亭主へ屆けてやる」。
耳にも入れず泣き狂ツて、「言ひませんよ、しやべりませんよ――女ですから助けてよ。御慈悲、御なさけ、家には子も有りますから、た、た、たすけて」と這ひまはる。
途端又ぞろ一發の銃聲。彈は美事に腦を穿ツて、只一發、女は目口から血を出して、その儘即死を遂げてしまツた。
「あ、可哀さうだがなア」と一言。何より氣になるのは密書の文面、すぐと慌てゝ開封して讀み下して仰天した。
丁提督から平壤へ宛てた書状で、日本艦隊の中幸にも筑波は損害を受けて戰列に加はるを得ず又同艦隊目下の状況水雷の準備も無しとの飛報、是千載の一遇、乘ずべき好機會に付明々後日を期して黄海にて日本艦隊を掩撃する手配との意味。
身をふるはせてぞツとして其書状を引ツつかんで矢部は天を睨んで姑らくは只茫然となツて居た。
「小田の言ツたとほりだ。苦勞だな、此海戰。一刻も早くだ、此由を本隊へ。さ、さ、さ、大變だ。うまく我艦隊に注意させる其間に合ツてくれゝば可いが」。もう血眼である。
注意は毛よりも細かい男の事とて矢部は此急忙の折りでも始末を附けるのを忘れず、今撃ち殺した二人の死骸から手がゝりの早く附かぬやうにと急いでそれを丸裸にして細かく着物をあらためると、鑑札、憑罩、文書なども有ツた、それもろ共に馬蹄銀をも奪ひ取り、女の髮の毛は些し計り剪り取り、萬事よろしと云ふところで、きツと一思案定めて例の保山の營所、李朴の居る處へ戻ツた
黒豬一件はどうしたと氣樂らしく、又さも待ちかねたらしい樣子で慌てゝ問ふ張翼に例の愛嬌ある笑顏で會釋して、今すこしく急ぎの事が有る故その事は後で御咄しする、ともかくも李監軍に御目に掛かると云ふので、やがて李に面し、是非とも密談を要するとて營外の草原へ連れ出した。
今日の珍事の始末を簡約に物語ると、聞く度毎の李朴の驚き、唯呆氣に取られてしまふ。
矢部はそれから疊みかけて、「女をたしかに其支那兵が保山へ送り屆けたといふ事を今日中には北洋艦隊へ復命する事に爲ツて居るのでしよ、ところが夫が歸らない、怪しむ、追跡を出す、仔細がわかる、直とそれ〴〵の手配をする、さうすると折角裏をかいてやらうと思ふ吾々の苦辛も甲斐が無くなるです。わが本隊で此手紙を見て、帝國の艦隊へ何なりと訓電する間も無い内に北洋艦隊はいよ〳〵先を越すとのつもりで、明日にも明後日にも帝國艦隊へ食いつく事になるでしよ。では大變、ところで窮策ですが、今日の一日だけの處を引き延ばすために代理の兵士を貴官から北洋艦隊へ派遣し、女はたしかに受け取ツて是から傳逓させる、傳逓して來た兵勇は病氣になツた故療治してから復す故その事に御承知を乞ふとの意味の手紙を持たせてやツて戴きたいです、どうぞ是非、是非ともに」。
李朴しばらく考へて、「隨分苦肉の策ですが、已むを得ませんな。あなたが支那兵となツて行ツて下さると好都合ですがな」。
「行きたいは行きたいですが。行ツて思ふさま北洋艦隊の樣子をも見たいのです。が、さ、此手紙をすみやかに本隊へ屆ける一件、是が人に頼めませんや」。
「大きに。それで至急を要する事ですからな」。
「ですからの御願ひ、すこし御迷惑なのは御察し申します。が、國家のためと折角」。
「心得ました」と斷然こたへて、「何とか始末して置きます。さう云ふ事なら一刻も早く、さうでしよ。何しろ大變なものが手に入ツた。實に天祐神助といふほどな――それにつけても清國の否運」と淋しく笑ツて太息した。
「實に奇です、こんな物を得るといふのは。ま、しかし、急ぎますから御わかれとします。もう何うも此手紙はよし幾ら人に怪しまれるとも持たずには行かれません」。
「御用心大切ですよ。支那兵につかまツたら言ひ脱けは最早困難でさ。つかまらん樣にしないでは」。
「此上はもう暴力です。捉まりさうなら腕力です。斫りくづしても迯げる計り短銃はそれ故に頂戴します」。
「結搆。彈丸は」。
「二發だけしかつかひませんから、まだ有ります猶くはしくは御咄しも爲たいのですが、急ぎますから此儘。又いつ御目に掛かれるか知れませんが隨分御自愛なさツて」。
「有りがたう。貴下も亦」。
別れかけたが立ち駐ツた、「忘れて居ました。その私が殺した女の髮の毛とその懷中にして居た銀、それ丈は良人の名を聞きませんでした。勿論小島で、人家も少ないでしやうから、その傳手を以て尋ねたら解らない事も有りますまい」。
銀と髮の毛とをわたせば、大に感じて受け取ツて、「承知しました嘸その良人も喜ぶでしよ。同じ殺したにしたところが、是等を返してやれば、どの位功徳になるか知れません。御安心なさい、たしかに御預り申しました」。
何から何まで快く承知されて今は心殘る所も無く、さらばと計り別れを告げて、矢部はその儘南へと向いた。
ひた走りに走ツて綿獄といふ山に差しかゝる、もう此山をさへ越せば日本兵にも逢へると思へば心一入勇んで、走りつゞけの足の痛みをもほと〳〵忘れて勢よく歩いて、その山中俚俗空垌と呼ぶ處まで來て、矢部も先一休みと岩角に腰打ちかけ、烟草に點火して、一吸ひ吸ふか吸はぬかの間に、突然として山鳴り谷應へると云ふ程の凄まじい叫び聲がして、人音さへも聞こえた。
偖も山の中で何の事かとその聲のする方、峯の方面をきツと見上げる途端、耳も裂けるばかりの銃聲が續けざまに二つした。
こりや事だぞ。戰爭か。偵察騎兵の衝突か。咄嗟の事とて思案も付かない。無心で身を起して中腰、同時猛然として目の前へあらはれたのは――虎。
是には矢部も仰天した。所持の武器と言ツたところが高が短銃、この猛獸に對しては壁に豆を投げるやうなもの。はツと唯思ツた計り我知らず二三歩飛び退ツた刹那、追へ駈けて來た支那兵三人、わツ〳〵との掛け聲もとろも又二發ばかりつるべかけた。
矢部は好い面の皮實にあぶない。自分と支那兵の間が虎、それを管はずに先方では撃つ。中たらないのが運といふのである。
今つるべかけた二發の彈丸はたしかに虎に中ツたと見えて、虎はうをツと一聲高く叫んで火を噴きさうな口を張り、野郎め撃ツたな思ひ知れとの勢ひ、矢部をば捨てゝ支那兵へと飛びかゝツた。
偖矢部は何うもできない。半町や一町迯げたとて何の甲斐有るものでなし、實に此時のみは茫となツて、その儘大地にへたばツて支那兵はどうするかと眺めて居た。
飛びかゝる虎の態度には流石に避易したと見えて、やツと叫んで三人ともに迯げ出す――虎は疾風のやうに跳ぶ――追ひ縋ツた。一番おくれた一兵士、もう是までと决死の勇、銃を逆に持ちかへて、立ち駐ツて臺尻で虎の腦天二つばかりしたゝかに食はせた、と思ふ間も無い、虎は手を使ふよと見る間、譯も無くその兵士の横面に一撃、兵士もんだり打たぬ計りの樣ではたと仆ふる――乘りかゝツて直と吭笛、噛みついた刹那悲鳴只一聲。
その間他の二兵士は三十間ほど迯げた。鼠に投げるに器を忌むと言ふ事、今言ツては居られない。また虎を目がけて撃つ。中たらない。が、怒り狂ツて高吼えした。前の兵士をば噛んだ儘にして置いて、又その方へと飛んで行く。寄せつけて堪るものかと又一二發、いよ〳〵虎は突進する。わツと言ツて又迯げ出すのに又ほとんど追ひ縋る。
きツと矢部も思案した。飛ぶやうに最初の兵士の仆れて居る處へ駈け付けてその銃を取ツた時は更に第二番目の兵士が毆り仆された刹那であツた。撃たうか、撃つまいか、瞬間の胸の混雜。
「撃ツてくれ、手傳ツてくれ!」迯げながら一人の支那兵が矢部の體を見て大呼した。
よし、そんなら。無言で點頭く。狙ひ定めて火葢を切ると、やれ了ツた、彈丸は支那兵に中ツて、音に應じてばツたり仆れる、直と虎はそれへ飛び付く。
又峰で人の諸聲がする。きツと其方を見上げると十四五人の支那兵の一むれ何か口々に罵るが何でも今その兵士を撃ツたのを憤慨する樣子で、矢部に向かツて撃ち出した。
ぴユツ〳〵と頭上を彈丸が飛び過ぎたと莨ふ間に、木の枝などを掠めるのが又ばら〳〵と聞こえ始めて其危險言ふばかりない。言ひ譯で叶ふ塲合ひで無いときツと思案、もう實に已むを得ぬ。見れば澗には雜木が亂生する、虎に食はれるか、彈丸に中るかの運任せ、ちツといふ掛け聲と共に身を躍らせて只無茶に飛び下ツた。
飛び下ツたが端無くも木の枝の繁みに支へられて、矢部の身は逆落としに落ちもせぬ。流石に肝を定めて無法には噪がず、引ツ懸かツた儘上の樣子を聞けば豆を熬るやうなつるべ撃ちの音と人聲と虎の吼える聲とすべてが一所になツて聞こえる。さてはまだ虎と鬪ツて居るのか、それならば好都合と木を傳はツてそろ〳〵と谷底へ降ツて行く内に凡そ五六分時間も過ぎたらうと思はれる頃になツて上の銃聲はぱたりと歇んだ。
「虎も殺られたらしい。俺に取ツては有りがたい。行き掛けの駄賃に銃一挺取るツたから大に安心だ。支那兵め、俺が仲間を撃ち殺したのを過失と知ツてか知らないでか大分怒ツて居るらしい。で無くとも見られては面倒だ。とにかく此谷に身を潜め、遣り過ぐしてから出る、それが一番安全だ」。
上では頻りに罵り噪ぐ。
「こんな小さな虎一疋に三人まで味方を失ツたとは實に殘念だ。」
「いゝや一人は今の韓奴が撃ツたのだ」。
「それにしろ三人だ。忌々しい、彈丸は韓奴に中らず、谷へ飛んでしまツた」。
「中ツたのだろ。中ツて跳ね飛ばされたのだろ」。
「さうでない、飛んだのだ、だが訝しな奴だ、餘程の决心でなければ谷へなど飛び下りられるものでない。何か曰くつきの奴らしい。とにかく搜せ」。
「自分が撃たれさうになツたので飛び下りたのだろ」。
「何しろをかしい。又我兵を撃つとは憎い。何しろ搜して糺問しろ」。
此應答は下で耳引ツ立てゝ居る矢部には一々手に取る如く返響して聞こえるにツと笑ツて、「大抵さう來るだらうと思ツた。見付かツたら見付かツた上の事此處は慌てゝはいけない。嫌疑の種たる書類と短銃とを隱して置けば可し、己も成るべく見付からぬやうにして置いて、それでも見付かツたら他意無い旨を有り體に陳述して疑ひを晴らさせる分の事だ。おや、もう、みし〳〵、がやがや。御出でなさるわい。證據物さへ無ければ威張ツたものだ」。
とある岩石の間に例の密書と短銃とを隱し、自分はそれから八九間はなれた所の草の繁みにもぐり込んで、わざと俯伏しになツて斃れて居る。
程なく五六人の支那兵がどや〳〵と下りて來て、彼方だ此方だと頻りに搜すそれを仆れた儘聞いて居る心もち、をかしくも有り、薄氣味わるくも有り。
同時一策が胸に浮いた。見付けられるよりは故と此方から呼ぶ方が可い、どうせ見付かりさうに爲ツた上は。
「もしどうか助けて下さい、もしどうか。どなたでも、もし何うか」。
「やツ居たツ。何處だ、何處だ」。
「此處でございます」。
「わからん奴だ、此處とは何處だ。うなツて見ろ」。
「うウん」。
「もツとよ、吝々せずと、もツと長く引ツ張ツて澤山…………うウん、〳〵と――何しろ草でさツぱり分からん。唸ツてる内には聲をたよりに」。
しくじツたと此時矢部が始めて思ひ附いた。と言ふのは外でも無い、相手が支那兵だと思ツて、わが身の韓裝なのは忘れてうツかり支那語で應答した事であツた。
「ぬかツた是は。が、もう仕方が無い。先方の出次第言ひ紛らすだけの事だその時はまた其時だ」。
「どうした唸らんか」。
「へイ、唸ります、うウん」。
「ぶツ、唸りますと云ツて居やがら」。
不意とは言ひながら度胸を既に定めた事とて、やがて矢部は谷から上へ引き上げられ、支那兵環視の中に立たせられても更に動ずる氣色も無かツた。
一應國籍から旅行の目的までを調べられた、それに對して自分は朝鮮國京畿道梨川府中陽里永石巷の烟草商で、支那兵に烟草を賣る目的で先月頃から保山邊をもさまよひ、張百總、李監軍にも贔屓になツたものであるが、烟草の荷が減ツた故更に仕入のため故郷へ歸る道であるとの答へ。
すると一人の曹長らしいのが點頭いて、「李監軍や張百總の事を知ツて居る所を見ると嘘でもあるまいが、しかしそれなら何故わが兵の銃を奪ツてわが兵を狙撃したか。又何故に吾等から試みのための發砲したのを止めてくれと哀訴をばせず、身を挺して谷へ飛び込んだか」と儼然として詰問した。
「いえ、それは身を防ぐに一心、最初は虎が私の前に居ましたのをりはや兵士の方は私の方に向いて御撃ちになりましたが、只運好くて身に中りませんでしたのを、それから虎が其先へ飛んで行き、一挺の銃は不用となり、剩へ手傳ツてくれとの御言葉でしたからそれでつひ發砲しましたのが過ツて却ツて人に。それは恐れ入りましたが他意有るのでございません。人よりは虎が怖いです、何で其の塲合ひでは危險を相偕にする人を故さらに撃ちましやうか」。
「虎より人を怖れる塲合ひが有るぜ、奸細などの身に取ツては」と氣味わるく淋しく笑ツた。
「私をそれでは奸細と……………」
「何でも可い、營所へ伴れて行く」。
是には弱ツて、「そりや實に困ります。既に保山の各武職の方々と御懇意でさへありますのに……………」
せゝら笑ツて、「とぼけちやいかん。その内部を委しく知ツて居るだけ、篤と問ひ究める必要が有る」。
「何處へ御つれになるのです」。
「何處でも可いぢやないか。強ひて聞きたければ言ふ、一應衛兵を具して保山まで。たしかに貴樣の言ふのが眞實なら、よしや保山まで行ツても怖い事が無く、證明も立つだらう」。
吁、くるしい塲合ひである。行くのは怖ろしくもないが、奈何せん例の密書を本隊に屆けるまでの時日の切迫するのを。茲で一日二日を過ぐせば百事實に畫餠となる。
短銃も生憎谷底に置いて來た。運に任せ、武力に因ツて一方に血路を開いて迯げるといふ事それも叶はぬ。悔いても今は及ばず、流石の矢部も思ひあまツた」。
「烟草屋、その他にまだ疑はしい廉が有るのだ」と敵は説明を施すといふ口氣で。
「何がです」と思はず眼をいからせた。
貴樣の言葉つきだ。中國の語を言ふその………」
「それは………」と云ふのを
打ち消して、「言ふな、ごた〳〵と。俺は久しく倭國に居た。で、よく倭人の音を知る。貴樣のは何う聞いても倭人の音、さア怪しいと云ふが何うした」。
ぎよツとしたが然り氣なく、「それは迷惑な。或ひは似た音も有りましやう。まして况んや御承知の如く私は清國人でも無し、この朝鮮の者でわづかに清國の語を覺えた丈である位ですもの。さう仰せられては困ります。全く急いで行かなければならぬ所でございます、どうか然るべく御酌量下さいまして、御放免下さるやうに」。
「酌量の餘地が無いわ」。
「それでは是までに事情を申し上げましても」。
「怪しいと睨んだからだいツ」。
兵一人を具されて矢部も保山へ護送される事になツた。爭ツても頼んでも其甲斐無い。膓を掻きむしるほどの痛恨、國家の危急を一日二日の眼前に控へて、それで身は早自由を失ツて、空しく貴重の日を送らなければ爲らぬ。他の營へ送られるのと殊なツて保山ならば一身の生命の危難それは無い。が、死それにもまさる苦しみ。忌々しくも身は罪囚扱ひになツて細索ではあるが兩手をさへ縛され、兵は銃と劍とを供へておごそかに護送される。扨迯げる工風は無いものか。欺くか鬪ふか、いづれ迯げるには其二つの一つ。ともかくも試みた上の事と心を碎いた。
「もし旦那、迯がしちや下さいませんか。實は京城にたツた一人の伯母が有りますので、もう日本兵も入り込んだと聞けば心元なく、それ故大急ぎで歸る所なのでございます。其所をどうぞ不愍と御覽下さいまして、どうか御慈悲に、もし旦那、些しばかりは金も持ツて居りますから差し上げても」。
「くど〳〵云ふなツ」と叱り飛ばして、「貴樣を迯がせば乃公の落度になる。怪しくなけりや保山で調べを受けてそれから歸ツたとていくら日取が違ふものでないわ」。
「ですが不好ですから。で、御金を……………」
「しツ、一口まぜに金、金と――賄賂で動く乃公ぢやないぞ」。同時銃の臺尻で矢部の背中をくらはせた。
「あ、痛ツ」と切齒して、「そんなに酷い事なさらずとも」。
「くどいからよ」。
「どうでも叶ひませんか、ど、どうしても」。
「また毆たれたいか、野郎」。睨めつけて直ぐ冷笑した。
もう頼んでも駄目である。金で動かぬ、珍しい硬骨漢、さて愛すべき、併し今の此塲合ひでは大に憎むべき旋毛まがり、こりや一筋繩では行かぬ。
が、身は手を縛され、その上に武器も無い、即ち自由の無い上に爪牙までも失ツたのである。敵は銃をも持つ、劍をも持つ、偖どうしたらば迯げられやうか。
「濟みませんが草鞋の紐が解けました、どうぞ結んで下さいまし。でも手が縛られてありますから結べません」。
兵は苦々しい顏で是非なく結んだ。
一二町行くと又解けた。又濟みませんがを始める、又結んでやる、又一二町行くと又解けた。
「不好だ、もう、貴樣の足はどうしたンだ。是で四度だ、もう結ばない、跣足になツて行け。ちよツ、好い面の皮な」。
「御尤もです、御ぢれなさるのも。私も解けさせるつもりでも無く、精々大事に穿いて居るつもりですが。どうしたンですかなア此紐は是が本當の紐々たらずだ」。
度胸さだめに一つ洒落た、と言ふのは早暴力で迯げやうと思案の臍を固めたので。もし旦那、これツきり。今度解けたら跣足になります、きツと。どうぞ不運と思しめしても一度、もし旦那、御慈悲でございます」。
「うツとしい。ぢや今度限りだぞ」。不精々々に結ばうとする、吁、々、その刹那、そこが運の决めどころで。
持ツた銃をば無論地上に置いてから取り掛る。身を屈めて兩手で紐をあやつる、其頃合ひを見料らツて、力を籠めて兵の鼻面、骨も碎けよと矢部は蹴上げた。
あツと後ろへ反りかへる、同時手先だけをはたらかして銃を奪ツて飛鳥の迅さ韋駄天ばしり、右手には九尺幅ほどの流れが有る、其處を身輕く飛び越えた
兵は起き上がツたが淋漓たる衂血、又眩暈したかよろ〳〵する體、策をも思ひ付かぬか只茫然。
「失敬は謝します。が、已むを得ませんや。幸に此銃を御供に申して是から迯げます」。言ツて居る内岩角ではや手の繩を擦り切ツた。
鬼見た樣な顏色して兵は切齒して居たが、愛すべき此好男兒、きツと思案したらしく、蹶然として跡逐ツて同じく流れを飛ばうとした。
「やツ御出でなさるか」。矢部は閃電、流水に沿ツた岩山へ道をえらまず攀ぢのぼる、下から兵士も續いて逐ひ來る。
「是非も無い。しやツ、撃つぞツ」。
銃を擬しても更に動ぜず、「撃てツ。逐がすものかツ」。
刹那鳴りわたる銃聲、一道の白けむり。のぼりかけた岩山の中ほどから血を降らせ滴らせ、肉片を處々岩にへばりつかせて轉げ落ちた衛兵は既に死骸となツてしまツた。
首尾よく是から矢部も迯げ、本隊の○○中佐(今は大佐)へ例の密書を示した處、中佐の驚愕一とほりならず、直に徹夜の秘密會が始まツて、謀は咄嗟に定まり、その曉方一つの急電が日本艦隊に發せられた、その日即ち明治二十七年九月十五日、黄海の大海戰の前々日で、美事終に支那艦隊は日本艦隊に先を越された
是までが矢部道任の生涯の前半で、是からの後半は更に一層奇怪の經歴なのである。即ち是から漁夫になツて威海衞の灣内を探り、又は旅順の戰ひに卷き添へを食ツて殺された支那婦人の死骸の乳房にいぢらしくも何をも知らず縋り着いて居る嬰兒を助け、又は黄海の海戰に某將官が卑怯な眞似をしたとて面責して切腹せよと迫り、又三國干渉の際支那から李鴻章へ來る暗號電報を奪ふため電信線を切らうとしたり、又それから露國へ入ツて踏測を行ひ、又いつか身をひるがへして布哇へ行き、米國に走り、更に比律賓のアギナルドに面會して身をその軍に投じ、仔細有ツて日本へ歸り、今年終に猛烈な毒を服して可惜不歸の客となツたまでが其後半の經歴の重な所である。あまり長談に亘る故今しばらく是だけにして筆に休息を與へ、不日また稿を續ぐ。矢部道任、本名は些しく憚る所有ツてわざと類似のにしたが、ある部内では思ひあたる人もあるに違ひない。唯この物語を讀ませられるにつけて、帝國の同胞諸君に記憶していたゞきたいといふのは日本今日此類の志士が有るとの事で、それがためには奮興される人も、又慚殺さるも人も或ひは有らうか。
女裝の探偵後篇 終