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素人言語論と言語学を分かつものの一つ(メモ)

言語ほどまともに勉強せずに物申す「インテリ」が多い分野も珍しいんじゃないだろうか。

人間は言語を自由に使いこなしているから言語についてわかった気持ちになりがちだけど、鳥が流体力学をわかっていない程度にはわかっていない

多分、これから書くことは、言語学について多少なりとも知識のある人には、そんな当たり前なことと鼻で笑われてしまうに違いありません。ただ、この点を意識しないでインターネット上で自己流の言語論を展開している人や、自分の卒業論文の質を低めてしまっている人を、ときどき見るように思うのです。


いわゆるバイト敬語の「よろしかったでしょうか」を例にお話しましょう。この形式に対して、主に二つの「言語論」を展開している人をよく見ます。

この二つの「言語論」は、いずれも等しく言語学的ではありません。どちらもなんら根拠を示さずに「自分はこう思う」と強弁しているだけです。それでは次の二つはどうでしょう。

これは一見 a. よりは論理的であるように見えます。しかし、「自分はこう思う」に都合のいい理屈をくっつけた以上の何者でもありません。「「た」が出てくる」ことの何がいけないのでしょう。「た」が婉曲を意味するとなぜ言えるのでしょう。Could は英語であり、「た」は日本語です。全く関係がありません。

結局言語学はある形式が正しいか、間違っているかという価値判断をしないのです。よく引かれるたとえですが、生物学者が「蝶は正しいが蛾は正しくない」と言うのでしょうか。


それでは、ある人が「よろしかったでしょうか」と「よろしいでしょうか」とのどちらを選ぶかを決定するための根拠を、言語学は提供しないのでしょうか。いいえ、そうではありません。たとえば、次のような調査を行えばよいのです。

その結果、「どちらの形式に人気があるか」というデータが採取できます。さらに、その人気の差は有意であるか、あるいは、集団によって結果は異なるか(性差、年齢差、地方差……)といった分析を加えることもできます。そしてその上ではじめて、(「よろしいでしょうか」に人気があるならば)「完了の「た」を入れてしまうことで違和感が生じるのだろう」とか、(「よろしかったでしょうか」に人気があるならば)「「た」に婉曲の効果があるのだろう」といったことを言うことができるのです。

こうした分析ができてはじめて「素人言語論」は「言語学」に脱皮でき、はじめて卒業論文は及第点となるだろうと思います。そしてその報告書を読んだ人は、好感を持たれたいならばより好感を持たれやすい形式を、持たれたくないならばより好感を持たれにくい形式を選ぶことができます。